地獄楽
『波間の追憶』
目次
序幕
  • 第一話
    ※公開終了
  • 第二話
    暗闇に咲く花
序幕
  •  探すは不老不死の仙薬。
     見返りは無罪の御免状(ごめんじょう)。
     神仙郷(しんせんきょう)─遥か南西海、琉球国の更に彼方にて発見された秘島に、十名の死罪人と十名の山田浅ェ門(やまだあさえもん)が送り込まれて早三日が過ぎた。
     ここは死を呼ぶ極楽浄土。ある者は島への上陸すら叶わずに死に、ある者は出会い頭の殺し合いで果て、ある者は脱出に失敗し、また、ある者は島で待ち受ける人ならざる存在の餌食となった。
     進むも地獄、引くも地獄。ならば身命を賭して、地獄の先へと突き進むのみ。
     果てに待つは更なる地獄か、極楽か。
     生き残った死罪人と山田浅ェ門は互いに導かれるように合流し、一時的な協力関係のもと洞窟へと身を隠す。
     一方、追加組の山田浅ェ門と、石隠(いわがく)れの忍達を乗せた船が、新たな悪夢と厄災をまとわせて神仙郷に接近していた。
     すぐそばに香る死が、束の間、記憶の底へと彼らを誘(いざな)う。

     潜伏する洞窟の近くでは、山田浅ェ門随一の解剖通が命の在り方に思いを馳せ、
     最終決戦を前に、他人を信用しないくの一が生きるために共闘を選んだ。
     島に向かう船の上では、般若(はんにゃ)の面をつけた石隠れの忍が瞳を昏く輝かせ、
     墨染(すみぞめ)の肩衣(かたぎぬ)をまとった試一刀流(ためしいっとうりゅう)二位の侍が、波を睨(にら)んで一門の無事を祈っていた。

     混沌と、混乱と、混迷と。
     風雲急を告げる壮大なる命の実験場で、胸の底に沈んだ記憶が、さざ波のごとく揺らめいた。
第二話
暗闇に咲く花
  •  神仙郷。霧舞う岩山の中腹。
     岩壁にぽっかりと口を開けた洞窟を背に、胸の部分が開いた唐土(もろこし)風の衣装をまとったくの一がぼんやりと空を見上げていた。
     傾主の杠(ゆずりは)。鷺羽城(さぎわじょう)侵入の咎(とが)で死罪を言い渡された罪人である。
     視線の先にある空は、立ち込める霧ですっかり覆われている。
     霧の奥。夜の闇。海の果て。空の彼方。人は見えないものの中に、期待と畏れを込めて様々な想像を巡らせる。それは恐ろしげな怪異だったり、輝ける宝舟だったり、あるいは蝶(ちょう)舞う極楽浄土だったりする。だが、その真の姿は誰にも摑(つか)めない。
     杠というくの一もまた同じだ。
     ある時は妖艶に、ある時は冷徹に、ある時は残忍に、またある時は慈愛に溢れて見えるが、霧の奥底にある本心は、誰にも見通すことができない。
    「杠さん」
     呼ばれて振り返ると、黒髪(くろかみ)を後ろで一つに結んだ白装束姿の女が立っていた。
    「どうしたの、さぎりん?」
    「いえ、その、ちょっと意外だったものですから」
    「何が?」
    「杠さんが、一緒に戦ってくれることが、です」
     島での幾つもの死闘をくぐり抜け、生き残った死罪人と山田浅ェ門達(やまだあさえもんたち)が合流、一時的に徒党を組んで洞窟に身を隠した。だが、メイが氣(タオ)の異変で島への上陸者の存在を察知し、もはや悠長に構えている時間はなくなった。
     闘争か、逃走か。
     協力か、離散か。
     共に行く者は洞窟に来てくれ─と、山田浅ェ門士遠(しおん)が今後の身の振り方を各々の判断にゆだねた結果、迷う間もなく全員が共闘の道を選んだ。
    「んー、私は私が帰れりゃなんでもいいんだけどね。盾になる人間が多いほうが、その確率が高いと思っただけ」
    「それでも、心強いです」
     佐切(さぎり)はにっこりと微笑んだ後、ふと気になったように尋ねた。
    「ところで、何を見ていたのですか」
    「ん?」
    「いえ、空を見ていたようなので」
    「あー……なんだっけな? 美しい景色?」
     おどけた調子で言うと、佐切が小さく首をひねった。
    「……? 霧であまり見えませんが」
    「あははー、そうだね。じゃ、そろそろ洞窟に戻ろっか。私が生き残るための作戦をみんなで立てようよ」
    「まったく、あなたは変わらないですね」
     苦笑した佐切は、ふと神妙な表情を浮かべた。
    「あの、杠さん」
    「なあに?」
    「その……もしよかったら、杠さんのこと、少し教えてくれませんか?」
     小首を傾げると、佐切は真剣な調子でこう言った。
    「いえ……その、かつて私にとって死罪人は、世に害を為(な)した悪人であり、浅ェ門として首を斬る対象でしかありませんでした。しかし─」
     佐切は拳をぎゅっと握る。
    「この任務で画眉丸(がびまる)を担当し、彼の過去や人となりを知って、少し考えが変わりました。死罪人も我々も同じ人間であり、同じような葛藤を抱えているのだと。だから、まずは知ること。互いへの無知と無関心こそが隔絶を生むのだと。ですから、共に戦うのであれば、杠さんのことをもっと知っておきたいと思いまして……」
    「…………」
     杠は少し黙った後、片眉を歪(ゆが)めて身をのけぞらせた。
    「うわぁ、真面目(まじめ)。真面目すぎてちょっと引く……」
    「え、す、すいませんっ」
    「なーんて、噓。さぎりんが興味を持ってくれるなんて嬉しいっ」
     今度は佐切にぴったりとくっつき、頭をよしよしと撫でる。
    「そうだなぁ……他ならぬさぎりんのお願いなら前向きに検討しちゃおっかな。まだ作戦決行には時間もあるし。暇つぶしに丁度いいし」
    「……暇つぶし?」
    「ううん、なんでもない。じゃあ、ちょっとだけしよっか、昔話」
    「本当ですか」
     表情を明るくする佐切を連れ、杠は岩肌に腰を下ろす。
    「ええと……むかーし、むかし、あるところに杠ちゃんという大層美しく可憐な少女がおりました。彼女が年頃になると、その美貌の噂は千里を走り、海を渡り、遂には唐土にまで届きました。時の皇帝は杠ちゃんを妻に迎えようと数多(あまた)の金銀財宝を贈り─」
    「え、すごいっ。そんなことがあったんですね」
    「……いや、噓に決まってんじゃん。摑みってやつ? ここは笑うところなんだから、笑ってくれないと」
    「そ、そうなんですか……すいません」
    「まったくもう、調子くるうなぁ」
     苦笑交じりに嘆息した杠は、佐切の真剣な顔を見つめ、おもむろに口を開いた。
    「むかーし、むかし……甲斐(かい)のとある山奥で─」
  •  奥深い山の中に、山鳥の鳴き声が高く響き渡る。
     それは生い茂る木々の間を抜け、幾重にも反響しながら、山全体を覆うように広がっていった。切り立った渓谷の足下には、瑠璃色の川が蛇行しながら飛沫(しぶき)を上げて流れている。急峻な地形は外敵の侵入を困難にする反面、そこに住まう者にも剝き出しの自然の厳しさを与える。
     甲斐の忍が拠点とする霙谷(みぞれだに)はそういう場所であった。
     夏でもどこか肌寒く、いつもうっすらと霞(かすみ)がかかっているので、里には霞谷(かすみだに)と呼ぶ者もいる。
    「はあ~、つっかれた」
     視界を遮る枝葉を払いのけると、杠の眼下に閑散とした山村が姿を現した。特筆すべきことが何もない鄙(ひな)びた村。ここが杠の生まれ育った故郷だ。杠の左ふくらはぎには裂傷があり、まだ乾ききっていない血糊(ちのり)がべったりと張り付いている。
     任務で受けた傷はじくじくと痛み、足を引きずりながら裏山の獣道を進む。
     やがて、村外れにぽつんと建つ一軒のあばら家に辿り着いた。
     夕陽に照らされた粗末な家から、こほこほと小さな咳の音が聞こえてくる。
     すぐには中に入らない。まずは裏手の井戸に向かい、音を立てないように左足の怪我を洗い流す。冷たい刺激が痛みを増幅させるが、杠は顔色一つ変えない。
     次に腰に提げた竹筒を手に取り、中の液体を喉(のど)に少量流し込む。
     ぬるり、と素足から染み出した粘液が、傷口を完全に覆い隠した。
     最後は納屋に入って、血に汚れた忍装束を素早く脱ぐ。棚に置いた籠から取り出した着物に着替え、代わりに脱いだばかりの忍装束を投げ入れた。
     着物の埃(ほこり)を払い落とし、大きく深呼吸をする。
    「これでよし、と」
     杠はそう呟くと、戸口にまわって勢いよく引き戸を開けた。
    「たっだいま~!」
    「あっ。おかえり、お姉ちゃん」
     布団から半身を起こして満面の笑みを見せるのは、妹の小夜(さよ)だ。早くに両親を亡くし、姉として、時には母や父として、小夜と二人この家で暮らしてきた。
    「寂しくなかった?」
    「大丈夫、野良丸(のらまる)が来てくれるから」
     小夜は、布団の上で丸くなってうとうとしている三毛猫の背中を撫でる。いつぞやから家に寄りつくようになった野良猫で、小夜は勝手に野良丸という名前をつけて可愛がっていた。
    「ちゃんと、いい子にしてた?」
    「うん、お姉ちゃんは?」
    「そりゃ、お姉ちゃんもいい子にしてたよ」
    「もう、そういうことじゃなくて。お仕事はうまくいったの?」
    「いやぁ、売れた売れた。うちの山菜は今日も飛ぶように売れたわ。お姉ちゃん、菜売りの才能があったみたい」
    「本当? よかった」
     妹の屈託のない笑顔を眺めて、杠は小さく息をつく。
    「さ、お腹すいたでしょ。ご飯にしよっか」
     ご飯、という単語を聞いた野良丸が、おもむろに立ち上がり、大きく伸び上がってにゃあと鳴いた。

     囲炉裏(いろり)にかけた鍋の中で、山菜汁がぐつぐつと煮え立っている。
     立ち昇る白い湯気が、天井に薄い膜を作っていた。
    「はい、できたよ」
     杠は椀(わん)に一杯すくいとると、布団に腰を下ろした妹に手渡した。
    「うわ、いい匂い」
    「ふふ~ん、今日は奮発して猪(いのしし)肉を入れてるからね」
    「ええ、そんな贅沢していいの?」
    「いいのです。そこはお姉ちゃんに任せなさい。あんたは栄養をしっかり摂らないといけないんだから」
    「ありがとう、お姉ちゃん」
     小夜は嬉しそうに椀を口に運んだ直後、ごほごほと咳(せ)き込んだ。
    「小夜、大丈夫っ?」
     杠はすぐに妹の背中をさする。
    「うん、ちょっとむせただけ。これとっても美味しいよ」
    「そう、よかった……」
     小夜は幼い頃から体が弱く、肺の病気も患っていた。
     まだ両親が生きていた頃、町医者に診てもらったことがあるが、医師にはどうすることもできないという回答だった。とにかく安静にして無理をしないこと。ずっとそうやって過ごしてきたが、それでも小夜の身体は日に日に弱ってきているように見える。
     色素の薄い髪のせいか、その存在までが希薄に感じられ、今にも消えてなくなってしまいそうだ。
    「小夜」
     思わずそのやせ細った肩を摑むと、妹はきょとんとして首を傾けた。
    「何、お姉ちゃん?」
    「あ、いや……そうだ、あんたさ、何か欲しいものある?」
    「欲しいもの?」
    「うん、いつも家にいるから退屈でしょ。最近お姉ちゃん稼いでるからなんでも言いな。買ってきてあげる」
    「うーん……」
     小夜は考え込むように細い眉を寄せる。
    「別にないかな」
    「えー、駄目だよ。欲望は明日への活力なんだから」
    「だって、お姉ちゃんがいてくれるし、野良丸もよく来てくれるし」
     小夜は、土間の端で煮込んだ猪肉の切れ端をぺろぺろ舐(な)めている猫に目を向ける。猫舌だからか、時々うにゃぉと顔をしかめていた。
    「だけどさ、ずっと家にいるのも辛くない?」
    「うん、そういう時もあるけど、私、辛い時は好きな事だけ考えるんだよ。飼い猫。好きな人。家族。美しい景色だけ思い浮かべるの。そしたらだんだん楽しい気分になってくるから」
     小夜は目を閉じて何かを想像しているようで、うっすらと微笑んだ。
     それは両親が生きていた頃の賑(にぎ)やかな食事時か。
     それとも、かつて近所に住んでいた仲良しだった男の子か。
     はたまた風渡る緑の田園風景か、豊かな稲が首(こうべ)を垂れる秋の夕暮れか。
     美しい想像の世界に浸る妹の横顔を、杠はじっと見つめた。
    「そうは言っても、なんかないの? 羊羹(ようかん)とか、かりん糖みたいな甘いお菓子。簪(かんざし)とか、新しい着物で着飾りたいとかさ」
    「そうだなぁ……あ」
    「何かある?」
    「あの……打ち上げ……花火が見たい」
    「打ち上げ、花火?」
    「前に行商の人に聞いたの。空に炎の花が咲いて、とっても綺麗なんだって」
     小夜は昔から花が好きだった。春の山野を駆けまわれば、野花くらいあちこちで見ることができるが、自由に出歩けない小夜にとって花は貴重な目と心の栄養源だった。
     しかし、瞳を輝かせた後、妹はうつむいて言った。
    「……でも、それは無理だよね。私はあんまり外に出られないし」
    「……」
     すぐに言葉を発せないでいると、外から物売りの口上が聞こえてきた。
     城下町から時々里山をまわってくる薬売りだ。
    「ちょっと待ってな、小夜」
     杠は家を飛び出すと、夕暮れに染まる畦道(あぜみち)を駆け、薬売りを呼び止めた。
    「ああ、どうも。杠さん」
    「いつものやつをもらえる?」
    「はいはい、咳止めですね」
     腰の曲がったやせた男は、背負った箱から粉薬の包みを幾つか取り出して杠に渡した。
     薬売りは頭に被った編笠を持ち上げ、気遣うような視線を向けてくる。
    「ところで、お仕事の塩梅(あんばい)はいかがでございましょう?」
    「ヨユーヨユー。結構向いてるみたい」
    「それはようござんした。厳しい稼業だと聞いておりましたが、大したものです」
    「まあ、才能ってやつ? それより例の薬は?」
    「残念ながら、今の額では……」
     小夜は不治の病に罹(かか)っており、医者にも匙(さじ)を投げられている。今買っている咳止めは気休めにしかならず、もっと効果的な何かが必要だった。藁(わら)にもすがる思いで行商の薬屋に聞いてみたところ、越中(えっちゅう)のほうで特効薬ができたという情報があった。
     だが、聞いてみると、とても手が出せる値段ではない。
     そこで、金を稼ぐ手段として、杠に忍稼業を提案したのはこの薬屋だった。
     諸国を渡り歩いているだけあって、裏の渡世にも多少通じているようだ。
     霙谷の集落を訪ね、杠がこの世界に足を踏み入れたのが数年前の話だ。
    「ご健勝は何よりですが、忍は危険な仕事と聞きます。妹様のためにもどうぞご自愛なさってください」
    「…………」
     薬売りの言葉に杠は無言で頷(うなず)き、あばら家を振り返った。
     小夜には余計な心配をかけないため、菜売りをしていると言っている。忍装束は納屋に隠し、修行や任務で負った傷は忍術で消している。命の危険と常に隣り合わせではあるが、山菜を売り歩くより遥かに実入りが期待できるのは確かだ。
    「それでは、金が貯(た)まったら教えて下さい。越中の特効薬を取り寄せる算段をつけますので」
    「そう、ね……」
     小夜の容態はこのところ悪化しているように思える。
     あまり悠長に構えている余裕はない。
    「あ、そうだ。ちょっと待って」
    「なんでしょう?」
    「あんたさ。打ち上げ花火がどこで見れるか知ってる? あちこちまわってんだから、噂くらい聞いてるでしょ」
    「花火と言えば、三河(みかわ)が有名ですが……ああ、そうだ、来月の十日に鷺羽の城下町でも打ち上げ花火をやるという話は耳にしました」
    「鷺羽城、か……」
     ここ一帯を治めている藩主の城だ。三河よりは近いが、それでも城下町までは数里の距離がある。とても今の小夜が辿り着けるとは思えない。
     しかし、病気が治れば別だ。
     空は少しずつ暮れてゆく。だが、太陽はまだ山際に飲み込まれてはいない。
    「それが何か?」
    「んー、別に」
     杠は肩をすくめて薬売りに背を向けると、妹の待つ家へと急いだ。
  • 「任務を増やせだと?」
     翌日。甲斐の忍衆の集落で、杠は長(おさ)の館を訪ねた。
     長は壮年の男で、片目が潰れ、乾いた唇には旧(ふる)い傷が刻まれている。
    「どういう了見だ?」
     低い声で問い質(ただ)す長の前で、杠は敢(あ)えて神妙な表情で答えた。
    「はい、霙谷の忍として、里のためにもっともっとお役目を果たしたいと思いまして」
    「……目当ては報酬か」
     ─そりゃ、ばれるか。
     どうやら方便は通じないようだ。
     忍の里では長が絶対的な権力を有し、配下の者達に任務をあてがう。下の者が具申することは許されない。その時点で別の思惑を疑われることはやむなしだった。杠は硬くした表情を崩すことにした。
    「まあ、先立つものはいくらあっても困りませんし。私、結構頑張ってると思うんですよね~」
    「杠。貴様、長に意見するとは何事かっ!」
     長の脇に控える上忍が声を荒らげると、長は片手を挙げて制した。
    「まあ、よい。だが、我らは藩抱えの身。増やせといって増やせるものではない」
    「そこをほら、なんとか。人員や人材の問題で後回しになっている任務もあるんじゃないかと思うんですよね~」
     長はしばらく黙った後、残った片目を細めて尋ねた。
    「……任務の心構えを申せ」
    「はいっ。物事の可否を素早く見極め、無理なものには決して手を出さない」
    「戦闘の際は─」
    「勢いや気合ではなく、冷静に敵の長所と短所を把握し、敵の長所を消すように戦います」
    「そして─」
    「常に先の先を読んで備える。勝利は偶然ではなく、必然と心得よ!」
     淀(よど)みなく答える杠をじろりと見つめ、長は言った。
    「……いいだろう。まわせるものはまわしてやろう」
    「長、いいのですかっ?」
    「やった。精一杯やらせて頂きますっ」
     驚く上忍を尻目に、杠は軽快な足取りで館を出て行った。
     室内では怒り心頭の上忍が、苦々しい顔で言葉を絞り出す。
    「長、あのような振る舞いを許していいのですか」
    「しかし、役には立つ」
     長は唇の傷をざらりと撫でた。
    「当初は女郎の真似事(まねごと)をさせて、諜報(ちょうほう)にまわそうと思っていたが、恐るべき忍の才よ。おそらく業前だけで言えば、この集落でも随一であろう」
    「ですが、勝手が過ぎます。一糸乱れぬ統制こそが忍衆の要というもの。我らの集落に住むことすら拒む女を、なぜかように重用されまする?」
     不満げな上忍を、長は横目で眺めた。
    「重用か……かつてわしの教えをあれほど素早く吸収し、実践できた者はおらなんだ」
    「し、しかし─」
    「だが、所詮は駒だ」
    「…………」
     息を吞む上忍に、長は淡々と、冷えた声色(こわいろ)で言った。
    「幾ら腕が立とうが、他より役に立つ駒というに過ぎん。使えるうちは使えばよい。そして、奴が駒という領分を忘れた時、利用価値を失くした時は切り捨てればよいだけだ。違うか?」
    「……はっ」
     上忍は慌てたように、その場にひれ伏す。
     ─利用価値、ねぇ……。
     杠は内心で呟くと、気配を殺して天井裏からゆっくりと移動する。
     館の外に出たと見せかけて、本音を聞くために、この場に忍びこんでいた。変わり身の術の応用で、気配を消すのは得意だ。とは言え、さすがに長居は危険なので、するすると影が移動するように杠は館を後にする。
    「ま、別にいいけどね」
     女の身で成果を出し続ける自分を周囲が面白く思っていないのは気づいているため、里の中でも決して気は抜かない。そして、ここに住まない理由は勿論(もちろん)、小夜のためだ。妹が慣れ親しんだ環境を変えたくないし、そもそも忍をしていることも秘密にしている。
     だから、長が自分を利用するのは構わない。それはお互い様だ。

     それから、任務漬けの日々が始まった。
     上の不興を買ったせいか、藩政下における不穏分子の暗殺、家老間の勢力争いに係(かか)わる諜報活動、それに野盗団の壊滅など今まで以上に身体と神経を削る任務を次々と割り当てられるようになった。しかも、負担に比例するほど報酬は増えておらず、里の上層部にかなりの上前をはねられているのは明らかだ。
     だが、ある程度希望を通した以上、今もめるのは得策ではない。
     数さえこなせば、塵(ちり)も積もって、いつかは山になる。そうして、痛みと疲労を蓄積しながら日々は過ぎていき、ようやく目標金額が見えてきた。
     あと、もう少しだ。
    「ねえ、お姉ちゃん、大丈夫?」
     ある日の夕暮れ。小夜が心配そうな口調で言った。
    「ん、何が?」
    「最近、すごく疲れているみたいだから」
    「えー、そんなことないって」
     杠は素知らぬ顔で首を横に振った。
     しかし、実際のところ、疲労は頂点に達そうとしていた。生傷も絶えず、忍術で消すのもやっとの状態だ。体中の傷が膿(う)んだようにじくじくと痛み、夜も眠れていない。
    「お仕事、あんまり無理しないでね」
    「はーい、わかってます」
     明るく言って右手を挙げると、小夜は突然声を張りあげた。
    「お姉ちゃん、ちゃんと聞いてっ」
    「小夜……?」
     小さな体に、いつになく切迫感を漂わせた妹を、杠は瞬(まばた)きをして眺めた。
     囲炉裏にかけた鍋から、ぐつぐつと湯が煮立つ音がしている。
     小夜は薄い唇を引き結んで、こう続けた。
    「私、本気で言ってるんだからね。お姉ちゃんが倒れたりしたら、私……」
    「……大丈夫だよ、小夜」
     口元を緩めて、杠は妹の髪を優しく撫でた。
    「私はあんたを残して倒れたりしないから」
    「本当に?」
    「本当」
    「約束だからね」
     小夜の言葉に、杠はゆっくりと、力強く頷いた。
    「うん、約束」
     体は限界に近く、気を抜くとばらばらに壊れてしまいそうだが、何一つ自由にならない小夜の生活を思えば、弱音など吐いてはいられない。
     その時、外から薬売りの口上が聞こえてきた。
     杠は家を飛び出し、男の後を追った。
     必要な金額は概(おおむ)ね準備ができた。今の内に特効薬の確保を依頼しておくことにする。
     ─待ってな、小夜。
     あともう少しの辛抱だ。
     あと、少しだけ。
    「よくぞこれだけの額を。大したものです」
     金の目処(めど)が立ったことを伝えると、薬屋は大いに驚いて言った。
    「という訳だから、特効薬、手に入れといてくれない?」
    「ええ、早速。ただ、需要増で相場も変動してますので、交渉用の見せ金が必要です」
    「手付金ってこと? まあいいけど、薬はどれくらいで手に入る訳?」
    「二十日もあればなんとか」
    「だったら、打ち上げ花火にはぎりぎり間に合うか……」
    「なんの話でしょう?」
    「なんでもない。こっちの話」
     杠から相当額の手付金を受け取ると、薬売りは深々と頭を下げた。
    「それでは、また」
     そう言って、薬売りは田んぼの畦道をゆっくり歩き出す。
     遠ざかる腰の曲がった背中を、杠はしばし無言で眺めた。やがて、踵(きびす)を返して我が家に向かう。疲れているはずだが、特効薬の算段がついたおかげか足取りは軽い。自身の影すら追い越せてしまえそうだ。
     だが、病魔は確実に妹の生命に忍び寄っていた。
    「小夜っ」
     家に入ると、妹が囲炉裏のそばでうずくまっていた。
    「ちょっと、大丈夫っ」
     急いで駆け寄ると、小夜は苦悶(くもん)の表情でごほごほと大きくむせた。
    「う、うん、大丈夫……野良丸にご飯をあげようと、したん、だけど……」
     手や口の周りに鮮血が飛び散っていた。
    「そんなの私がやるから、早く横になりな」
     布団に寝かせようとその体を持ち上げると、小夜の体重はぞっとするほど軽かった。まるで魂がその身から抜けかかっているように。もう時間が残されていないという事実が、杠の腕に否応(いやおう)なく伝わってくる。
    「小夜、あんた……」
    「どう、したの?」
    「……ううん、なんでもない」
     煎じた薬草と咳止めをぬるま湯で飲ませると、ようやく小夜の発作はおさまった。
     だが、呼吸が細い。息をするのもやっとに見える。
     この病は急に悪化することがあると、かつて医者に聞いたのを思い出した。
     もうすぐ、あともう少しで薬が手に入るというのに。
     指先が震えそうになるのを自覚し、杠は大きく息を吸って吐いた。何度か繰り返すと、心の芯がすぅと冷えてくる。忍の修行では技術だけではなく、冷徹で合理的な思考法も叩(たた)き込まれる。
     極限の状況においても、できること、できないことを素早く見極め、無理だと判断したら決して深入りしない。それは時間と労力の浪費であり、徒(いたずら)に身を危険に晒(さら)すだけだからだ。慌てふためいても事態が好転しないのは知っている。冷静に、今なすべきことに思考を巡らせる。
     既に医師の手の施しようはない。
     頼りは越中の特効薬。
     果たして、薬の到着まで妹の身体は持つだろうか。
     杠は布団で浅い呼吸を繰り返す小夜の姿を、観察するように眺めた。
    「…………」
     おそらく二十日は持つが、それ以上は予断を許さない。期間内に約束通り特効薬が手に入ればいいが、薬売りの交渉がうまくいかない場合も当然ある。
     もし、薬売りが期日までに戻らなければ─
  • 「暇(いとま)が欲しい、だと……?」
     ある日の夜。
     妹を寝かしつけた杠は、霙谷の山中に分け入り、忍の集落へと向かった。
     長の館を訪ね、一つの要望を口にする。
     パチパチと爆(は)ぜる松明の火が、歴戦の傷跡の刻まれた男の顔に濃い影を作った。
    「先日は任務を増やせと聞いたがな……」
     杠は心外といった表情で首を振った。
    「いえ、暇が欲しいなんておこがましいことは言ってません。単に数日ほど英気を養う時間が欲しいなぁって」
    「同じことだろうがっ」
     長の脇に控える上忍が、いつものように声高に言った。
     薬売りの訪問から今日で二十日が経ったが、いまだ音沙汰はない。何か不測の事態が起こったと考えるべきだ。越中までの旅程と逗留(とうりゅう)先は事前に聞いているため、自ら出向いて薬売りと合流、問題を解決して特効薬を持ち帰る算段だった。
     自分の足ならば、数日あれば甲斐と越中を行き来できる。今の小夜を残して行くのは不安もあるが、ここ何日かは状態も落ち着いている。
     逆にこの機を逃すと、手遅れになる可能性が高い。
     畳に胡坐(あぐら)をかいた長は、微動だにせず口を開いた。
    「暇をくれと言われて、やると思うか」
    「そうだったらいいなぁって。長にとっても悪い話ではないと思いますし」
    「……どういう意味だ」
    「もし今回、数日のお休みをもらえれば、私はきっと長に深く感謝して、ますます身を粉にして働くと思います」
    「はっ」
     小さく肩を揺らす長の姿が、松明の明かりの中ではやけに大きく踊って見えた。
    「呆(あき)れた女だ」
    「ですよねー。でも、悪い話ではないですよね?」
    「吞まねばどうする」
    「勿論、これまで通り一生懸命やりますが、無理がたたって本来の働きができず里の名を汚してしまうかも……」
    「ほう。このわしを脅すか」
    「滅相もございません。これからも使える駒として、長のお役に立ちたいという所信表明ですっ」
     杠は殊更に明るい調子で言った。
     忍は実利的な集団だ。決して善意や情熱では動かない。
     損得を素早く天秤(てんびん)にかけ、理と利によって行動を選択する。
     だから、理屈を説いて利益を示せば勝算はある、と判断した。
     主要な雇い主である藩の現当主は、敵を作りやすい人物という噂も聞いている。実際、血腥(ちなまぐさ)い依頼も多いし、杠が何日も寝ずに任務をこなした分、結構な額が懐に転がりこんでいるはずだ。
     泰平の世が長く続き、この稼業も成り手が減ってきていると聞く。客観的に見ても、杠は里の誰よりも実績を上げてきた。長とて数日の暇を出すだけで、今後の忠誠が得られるならば決して悪い話ではないはず。
     長は値踏みするように杠を眺め、節くれだった指で畳を叩いた。
    「随分と傲岸不遜(ごうがんふそん)な申し入れだが、考えてやらぬでもない」
    「本当ですかっ」
    「だが、物を頼むにはそれなりの態度があるだろう」
    「……長、どうかお願い申し上げます。何卒(なにとぞ)お聞き入れ下さい」
     杠は床に手をついて、深々と頭を下げた。
     茶番だ。小娘が慇懃(いんぎん)に首を垂れたところで一文の価値もない。杠もわかっているし、長もわかっているはず。しかし、上忍がいる手前、そういう儀式が必要なのだろう。
     頭を下げたままちらりと様子を窺うと、長と上忍が低く笑っていた。
    「杠。貴様はなぜそうまでして暇を欲する?」
     違和感、を覚えた。
     交渉は成立した。もはや理由などどうでもいいはずだ。
     忍は無駄なことに労力を割かない。この問答に意味などないはず。
     ただ─、と杠は思う。
     この居心地の悪さは、実はもっと前から感じていた。
     どこかに棘(とげ)が刺さっているのに、それがどこかわからないような。いや、本当はわかっているのに敢えて気づかない振りをしているような─
    「このままでは期待に応える働きが……」
     適当な理由を口にしようとすると、長は杠の言葉を遮り、こう言った。
    「御託はよい。今すぐ越中に向かいたいのだろう。病の妹の特効薬を手に入れるために」
    「─っ」
     全身がこわばるのを感じた。
     腹から漏れ出す笑いをかみ殺すように、長は続ける。
    「良いことを教えてやろう、杠。特効薬などないのだよ」
     畳に顔を向けたまま、杠は両目を見開いた。
     棘は刺さっていたのだ。
     それも、ずっと前から。
     顔を上げた時には、いつもの表情に戻っていた。
    「……なんの話でしょう」
    「いいぞ、忍は決して動揺を表に出すな。わしが教えた通りだ。あの薬売りは諸国を巡って情報を集める藩の間者だ。そして、奴にはもう一つ仕事がある。薬を買えない貧しい女をくの一に勧誘するというな」
     泰平の世になり、忍の世界も人手が減っている。
     それはわかっていたはずなのに。
    「特効薬の話は、貴様を忍稼業に落とすための方便だ。貴様が必死に稼いで薬売りに渡した手付金は、半分は藩に、もう半分はわしの手元に戻っておる。世話料として受け取っておこう」
     長の吐いた湿った息が、杠の首筋に生温(なまぬる)く絡みつく。
    「さて、貴様の要望だが、これまでの働きに免じて特別に暇を出してやろうではないか。数日と言わず、十日でも二十日でもくれてやる。ただ、その後は宣言通り、駒として里のために働いてもらうぞ。死ぬまでな」
    「なるほど、ね……」
     杠は溜め息をついて、脱力したように姿勢を崩した。
    「そういうことかァ……」
    「こちらは要望を吞んだ。よもや今になって里を抜けるとは言うまいな」
     杠は胡乱(うろん)な瞳を一瞬長に向けると、にこりと微笑んだ。
    「勿論です、長。これからも霙谷の忍として立派にお務めを果たして参ります」
    「はっ、煙玉に火矢と火槍(かそう)、相当量の火薬が……」
     中忍が恐縮した様子で答える。
    「杠の仕業、でしょうか」
     脇に控える上忍がどこか不安げに長に問うた。
    「おそらくな。奴は気配を消す術(すべ)に長(た)けている。武器庫番の隙をついたのだろう」
    「まさか我らの里に火を放とうと考えているのでは……」
     顎をひと撫でして、長は無表情に語った。
    「そういう脅しだろうが、実際に行動は取らぬ。奴は病で動けない妹を抱えている。我らに叛意を示せば、妹を盾に取られることをわかっているはずだ。それにいかに腕が立ち、隠密(おんみつ)術に通じていようが、死を顧みず、完璧な統制のもとに動く忍の集団に抗えぬことは、身をもって理解していよう」
    「た、確かに」
    「有能な忍は物事を見極める力に優れている。そして、奴は有能だ。だからこそ、我らには逆らえぬ。勝てぬとわかっているからな。そのように仕込んだ」
     長は口の端をかすかに引き上げる。
    「十日後に藩主の元に参じるよう通達があった。新たなお役目を頂くことだろう。使える駒には存分に働いてもらおうではないか」
     ねっとりした夜の闇に、低い笑い声が響いた。
  • 「お姉、ちゃん、どうしたの?」
     数日後。夏を謳歌(おうか)する蟬達の賑やかしもすっかり静まった日暮れ時。
     杠は小夜を縁側に敷いた布団に寝かせた。
     妹の息は浅く、顔も青白い。手足は枯れ枝のようで、病魔がその小さな体を隅々まで蝕(むしば)んでいるのが嫌でも見て取れる。
    「ちょっとだけ我慢してね、小夜」
     猫の野良丸も興味津々にやってきて、小夜の布団の脇にちょこんと座った。山々を渡ってくる風が、妹の前髪を優しく吹き上げる。
    「あの、お姉ちゃん……一体─」
    「あんたさ、打ち上げ花火が見たいって言ってたよね」
    「う……うん、でも……」
     庭に立った杠は、両手を広げて軽く頭を下げた。
    「さあ、お立ち会い。これから、第一回、我が家の花火大会を開催しますっ」
    「え……」
     小夜が驚いて声を上げた。
    「それじゃあ、まずはこれから」
     煙玉を取り出して火をつけると、煙が辺り一面に立ち込めた。本来は逃走用に使う道具だが、雰囲気作りには丁度いい。
     煙の演出の後は、穂先に火薬を取り付けた槍(やり)を振り回す。
     火槍といって、槍と火の両面で敵を攻撃する武具だ。その軌道に沿って、炎が幻想的に浮かび上がった。野良丸がぎゃっと驚いて跳び下がったが、小夜のほうは布団の上で目を見張っている。
    「……すごい。どうしてこんなことができるの」
    「ふふふ、練習したからね」
     忍は火器を扱うことも多く、火薬の専門家でもある。
     杠は武器庫から持ち出した火器と火薬を使って、妹のために手製の花火を作った。
     次は火矢だ。弓を引き絞り、先端に火薬を取りつけた矢を上空へと飛ばす。ひゅるると甲高い音が響いて、赤い炎が流星のように夜空に弧を描いた。
    「わぁ……」
     小夜の感嘆の呟きが、夜風に混じって流れていく。
    「さあ、まだあるよ」
     続いて、杠は庭先に立てた竹筒に火種を落としてまわった。
     内部に火薬を仕込んだもので、吹きあがった火柱が夜空を派手に彩る。
     天空に舞い上がった火炎が、滝のように無数の筋を描いて落下した。熱と光が明滅し、視界を華やかに埋め尽くす。
    「綺麗……」
     次はいよいよ目玉だ。
     杠は素焼きした球状の壺のようなものを、天空に向けて一直線に放り投げた。
     弓を引き絞って、火矢を放つ。
     矢じりが命中すると、中の火薬がぱぁんと弾けて、火花が四方に飛び散った。
     星空を背景に、目にも眩(まぶ)しい紅蓮(ぐれん)の花が咲く。
    「打ち上げ、花火……」
     小夜はそう漏らした瞬間、大きくむせた。
    「小夜っ」
     駆け寄ると、小夜は息も絶え絶えに唇を動かした。
    「お姉、ちゃん、ありがとう……最期に、綺麗な……」
    「馬鹿っ。まだ終わりじゃないよ。お姉ちゃんたくさん用意したんだから」
     自然と早口になるのは、その時が来てしまったことを直感したからだ。
     ここ二、三日、小夜の容態は急激に悪化していた。鍛え上げた観察眼が、小夜の救命がもはや不可能であることを残酷に告げている。肉親の生死すら冷静に見極められてしまうことが、どこまでも恨めしい。
     神に願っても、仏にすがっても、奇跡など起きないことを杠はよく知っている。
     嫌というほどに。
     小夜は小さな手を伸ばし、杠の腕を摑んだ。
    「それから……ごめん、ね……」
    「何言ってんの。あんたが謝ることなんて何もないんだよ」
    「私、わかって、たの……お姉ちゃんが……何か危ないお仕事を、してるって……。野良丸が、納屋から、血のついた服を持ってきた、ことが、あったから……」
    「あんた……」
     思わず息を吞むと、小夜は弱弱しい口調で続きを口にする。
    「でも……言えなかった……。私の、ためだと思うと、何も、言い出せなくて……」
    「……うん、もういいよ。もういいからっ」
    「だから……お願い、があるの」
    「何? なんでも言いな」
     囁(ささや)くような声を、一言も聞き洩らさないように、杠は妹に耳を近づける。
    「お姉ちゃん……これからは、自由に、生きて」
    「小夜……」
     杠は生気の抜けゆく妹の顔を見つめた。
    「ずっと……私のために、無理をさせて、ごめんね。だから、もう、好きなように……」
     こぼれていく。
     この手から、この体から。
     病と闘い続け、燃え尽きた命が、温かな煙となって夜の風に流されていく。
    「小夜……小夜っ!」
    「駄目、だよ……そんな、辛そうな顔をしないで。私は、とても……」
     小夜はすぅと目を細め、どこか安心したように微笑んだ。
    「幸せ……だった、から……」
    「小夜っ……ねえ、小夜っ!」
     やがてその瞳は、ゆっくりと、眠るように閉じられる。
     喉が擦り切れるほどに名を呼んでも、羽毛のように軽い身体を何度揺すっても、幼い瞼(まぶた)が開くことはもう二度とない。
    「…………………………小、夜……」
     杠はかすれた声を漏らし、まるで眠っているような、どこか穏やかな妹の顔に触れた。
     ─辛い時は好きな事だけ考えるんだよ。
     ─飼い猫。
     ─好きな人。
     ─家族。
     ─美しい景色だけ思い浮かべるの。
     そう語っていた小夜の魂は過酷な現実に別れを告げ、痛みや苦しみのない美しい世界へと永遠に旅立ってしまった。
     庭先の竹筒から吹き上がっていた火柱が、次第に細くなり、やがて辺りに夜の闇が舞い戻ってくる。
     離れていた野良丸が恐る恐るやってきて、小夜の頰(ほお)をぺろぺろと舐めた。不思議そうに首を傾げる飼い猫を無言で見下ろした後、杠はゆるゆると首を巡らせ、雑草がまばらに繁った庭先に目を向ける。
     小さな家の中から、小夜がいつも眺めていた景色。
     ここから見えるものが、妹の世界であり、全てだった。
     忍は神に願わない。仏にすがらない。
     それでも、小夜の最後に見たものが、どうか─美しいものでありますように。

     ここから見えるものが、妹の世界であり、全てだった。
     どれだけ大きなものがこの世から失われようが、太陽は憎らしいほどいつもと同じ顔で山際から姿を現す。残酷なまでに眩しい陽光が、閑散とした村の隅々までを容赦なく照らし上げ、この世界から欠落したものを一層際立たせた。
     見晴らしのいい山の中腹。両親の眠る墓のすぐ隣に、杠は妹の亡骸(なきがら)を弔うことにした。
     小さな墓石に手を合わせていると、足元に野良丸が擦り寄ってくる。
    「野良丸。いつも小夜のために遊びに来てくれてありがとうね。あんたももう好きに生きな」
     頭を撫でて促すと、野良丸は軽やかな動作で、山中へと駆け出した。
     一度立ち止まり、杠を気遣うように、なーごと鳴いた。
    「ん、私? ま、私のことは気にしないで」
     野良丸に笑顔で手を振った後、杠は墓石に目を落とし、語り掛けるように言った。
    「私も好きなようにやるからさ」
  •  甲斐の霙谷から数里の距離。
     広大な盆地を見下ろす小山に、堅牢(けんろう)な白亜の城郭が建っている。真っ白な漆喰(しっくい)で塗り固められたその外観が、水辺で羽を休める鷺の姿に似ていることから、鷺羽城と名付けられた藩主の居城だ。
     奥御殿に住まう藩主─柳原忠里(やなぎはらたださと)のもとに奇妙な報告が届いたのは、まだ日中の蒸し暑さが残り香のように漂う夏の夜だった。
    「何……? 死んでいた、だと?」
     諜報員として雇っている男が、城下町の潜伏先で死体になっているのを発見されたという。普段は薬売りに身をやつして、諸国を巡らせていた間者で、腕も立ち、相手の懐に入り込むのもうまい男だ。
    「誰の仕業だ……?」
     事故で死ぬような男ではない。何者かにやられたと考えるのが自然だ。
    「何か問題でもありましたかな」
     部屋の隅の闇だまりから、男の低い声がした。
     闇に溶け込むような黒装束をまとった隻眼(せきがん)の男が正座をしている。
     不敵に微笑むその男に、柳原は言った。
    「……どうやら、まだ反乱分子が潜んでいるらしい」
     泰平の世が長く続いているとは言え、藩や幕府に弓を引こうと考えている者はいつの世にも存在する。そういう者をいち早く炙(あぶ)り出すために、柳原家は代々間者を雇ってあちこちに潜りこませていた。
     それに、現藩主である忠里は、父の後を継いで以降、年貢や上納金の負担を増やしていた。故に天下泰平のためのみならず、自らの政治に対する不満の声を封殺する目的でも、忠里は間者を使っていた。
     無論、実際に手を下すのは自分ではない。
    「貴様に新しい役目をやろう。薬売りを殺した反乱分子を探し出せ」
    「有難きお役目」
     隻眼の男は、暗闇の中で深々と頭を下げる。
     男は父親の更にもっと前の代から関わりのある霙谷の忍衆の長だ。間者が吸い上げてきた情報をもとに、裏の仕事は忍にやらせる。陰気で何を考えているかわからず、嫌悪すべき連中だが、汚れ仕事には向いている。
    「しかし、このような日になんとも興が削がれる話だ」
     柳原忠里は、舌打ちをしながら障子のそばへと向かった。
     今宵(こよい)は少し特別な夜。無粋な話は耳に入れたくない。
     だが─
    「殿っ、御注進ですっ」
     間髪入れず、別の者が報告にやってきた。
    「今度はなんだ。つまらぬ話なら承知せんぞっ」
    「はっ。そ、その、番方が……」
     番方というのは城の警備を担っている者達だ。
     報告の侍は、ごくりと喉を鳴らして続きを口にした。
    「皆、打ち倒されております」
    「……なんだと?」
    「門兵や夜回りの侍達が、軒並み倒れ伏しておりまして」
    「敵襲か。どこから来たっ。数はっ?」
     声を張りあげる柳原に、家臣は額に汗を浮かべて答える。
    「そ、それが、よくわからず……」
    「貴様は何を言っている。儂(わし)をたばかっておるのか」
    「い、いえ、名乗りもなく、戦火もなく、争う声も聞こえず、いつの間にか倒されているといった様相で─」
    「…………」
    「すぐに人を集めたほうがよいですな。敵は相当隠密術に長けている様子」
     霙谷の長の言葉に、柳原は一瞬考えて、すぐに大声を上げた。
    「う、うむ。出合えっ、出合えーっ。賊は既に城内に侵入しているかもしれんっ」
    「当ったりー」
     場違いに明るい声が、柱の陰から響いた。
    「ぐぇ」と短い呻き声を上げて、報告の侍が後ろ向きに倒れる。その首には透明な糸のようなものが巻き付いていた。
    「な、何奴っ」
     暗闇から誰かが近づいてくる。ぼんやりした行燈(あんどん)の明かりに浮かび上がったのは、忍装束をまとった女だった。
    「お、女……? 貴様が賊かっ!」
     怒号を響かせる柳原の後ろで、霙谷の長がゆっくり立ち上がった。
     困惑と怒りの混じった声でその名前を口にする。
    「杠……」
  •  突然現れた部下を睨(にら)みつける長の前で、藩主の柳原が必死に配下を呼んでいた。
    「出合えっ、出合えっ。早く儂を守れっ!」
     しかし、腹から絞り出した声はむなしく反響するだけで、家臣は誰一人現れない。
    「な、なぜ、誰も来ぬっ」
    「もうみんな寝てるのかもね~」
     ゆっくりと近づいてくる杠は、にこやかに言った。
     柳原が後ずさりながら声を震わせる。
    「ま、まさか……城内の家臣を全員制圧したというのか」
    「お侍ってさ、真っ昼間に立ち会うのは得意かもしれないけど、暗闇になるとからっきしだよねー。夜に弱い男って頼りないと思わない?」
    「き、貴様、どこの手の者だっ」
     杠はにっこり微笑むと、長に向かって手を振る。
    「やっほー、長。元気してた?」
    「貴様は、どうしてここに……」
     言いかけて長は気がついた。杠に特効薬がないことを明かして暇を出した夜、長は鷺羽城に後日出向くことを上忍に漏らした。杠はどこかに潜んでそれを聞いていたのだ。
    「そういえば、変わり身の術は得意だったな。気配を消すのはお手の物という訳か」
     怒りに目を剝いたのは、藩主の柳原だ。
    「なんだと、霙谷の反乱かっ。長年飼ってやった恩を忘れたかっ」
    「違います、殿」
     長は首を振った。
    「あやつは破門した者。もはやうちの里とはなんの関係も─」
    「えー、噓言っちゃダメですよぉ。これからも一生涯、霙谷のために頑張ってくれって言ったじゃないですかぁ」
    「……黙れ」
     長は低い声で言うと、背中に負った刀を引き抜いた。
    「血迷ったな、杠。駒の領分をはみ出した者は、もはや駒ではない」
     音もなく足を踏み出し、長は隻眼に冷たい殺気を宿らせる。
    「薬売りを始末したのも貴様か」
    「えへへ、わかります?」
    「そして、次の標的がわしとはな」
     杠が何を考えているかはわかる。特効薬の件で、長年杠を騙(だま)した薬売りと長への復讐だろう。霙谷で襲ってこなかったのは、周りに盾となる部下が幾らでもいるからだ。簡単に命を投げ出せる忍の集団相手に、一人では抗えない。
     そこで長が部下の忍達から離れる時を狙った。
     だが─
    「それで裏をかいたつもりか? 貴様はもう少し有能だと思っていたがな」
    「……?」
    「幾度となく教えただろう。忍は物事の可否を素早く見極め、無理なことには決して手を出すなと」
    「あー、覚えてますよ。念仏のように聞かされましたねー」
     おどける杠に、長は静かに告げた。
    「貴様は誰よりわしの教えを体現できたと思っていたがな。どうやら見込み違いだったようだ」
     眉をひそめる杠をひたと見据え、長はわずかに腰を落とした。
    「─馬鹿め。配下がいなければ、わしに勝てるとでも思ったか」
     つま先で、畳を一蹴り。瞬きの間すらなく、長は杠との間合いを詰めた。
     風を切って振り降ろした刃を、杠は小太刀(こだち)で受け止める。暗闇に走った閃光で、杠の肌から透明な粘液が染み出しているのが見て取れた。
     粘糸を操る杠の手の内はよく知っている。鋼鉄のような硬度にもなる糸を自由に振り回せないよう、距離を与えないことが肝要だ。
    「戦闘の際は勢いや気合で戦うな。冷静に敵の長所と短所を把握し、まずは長所を消す。相手の自由を奪え。そう教えたぞ」
     杠の技術も思考も、全て自分が仕込んだもの。どれだけ優れていても、模造刀は所詮真剣には敵わない。
     杠の場合は、距離さえ潰してしまえば、後は純粋な剣戟(けんげき)の勝負。
     そうなれば、速さも腕力も長に分がある。
    「ぐ……」
     刀に押された杠は、畳をぐるぐると転がり距離を取ろうとする─が、長は一瞬で間合いを詰めると再び刀を振るった。
     刃の先端が杠の太ももを縦に削り、鮮血が白い肌に滲んだ。
     だが、傷は浅い。身体中をとりまく粘液が防御壁の役割を果たしている。
    だから、手は緩めない。猶予も与えない。
     杠の息が上がっている。長が連続で繰り出す斬撃をさばくのがやっとだ。
     もう、勝利は見えていた。
    「先の先を読んで備えろ。勝利は偶然ではなく、必然だ。それも教えたはずだぞ」
     袈裟(けさ)懸け。
     右薙(な)ぎ。
     逆袈裟。
     激しさを増す打ち合いの中、長はかすかに口角を上げる。
     忍の里では幼い頃から徹底的な支配関係を刷り込み、絶対に長に逆らえないよう調教を施す。しかし、物心がついた後に特効薬を目的に忍になった杠には、精神的な支配が及びにくいところがあるのはわかっていた。
     だから、長は杠の修行をいつも観察していた。
     特定の順番で打ち込んだ際に、一瞬だけ防御が遅れる癖も知っていた。その癖をこれまで敢えて指摘してこなかった。
     先の先を読む。
     万が一の叛意(はんい)に備え、長はずっと前から準備をしていた。
     杠が霙谷に入った時点で、もう勝負は決していたのだ。
     唐竹(からたけ)。
     渾身の力で、長は右腕を振り降ろす。杠は痛みに耐えるような顔で小太刀を両手で支え、それを受け止めた。直後─
    「終わりだ」
     刺突(しとつ)。
     真っ直ぐに突き出された刃が、粘液の壁を越え、杠の胸の中心を貫く。
     ごふ、という呻きを耳に、長は真っ青な顔で障子にへばりついている藩主を振り向いた。
    「殿、失礼仕(つかまつ)りました。謀反者はこの通り─」
     冷たい戦慄が背筋を這(は)い上り、長はそこで言葉を止めた。
     いつの間にか、自分の首に粘液の糸が巻き付いている。
    「戦闘中に油断するなんて、何を考えているんですかぁ? 長に怒られちゃいますよ、長」
     背中から、どこまでも晴れやかな声がする。
     身を硬くしたまま、畳を横目で見ると、刀が突き刺さった天然木が転がっていた。
     床の間に置いてあったものだ。
    「変わり身……の術、か」
    「せいかーい。よくできました」
    「……しかし、なぜだ。貴様にあの太刀筋は防げないはず」
     特定の太刀筋で杠の防御が遅れるのは、修行中に何度も見てきた。急に直せる癖とは思えない。
     困惑とともに呟くと、杠が耳元で囁いてくる。
    「何言ってるんですかー。先の先を読んで備えろ。長の教えですよ」
    「まさか……」
     乾いた唇を、長はやっとの思いで開いた。
     杠は気づいて、いたのだ。
     長が修行中に観察していることに。
     だから、特定の順番で打ち込んだ際に防御が遅れるという弱点を装っていた。
     ずっと前から。忍の里に入った時から。
    「ふ、はは……」
     思わず笑みが漏れる。見込み違いは、己であったか。
    「─見事。わしの後継者に相応(ふさわ)しきはやはり─」
    「長、私、どうしても許せないんですよね」
     首筋にかかった凍えるような吐息で、長は死の淵にいる状況を改めて認識する。
    「話を聞け、杠」
    「薬売りを? 長を? ううん、一番は自分をです。特効薬なんてうまい話、幻想にすぎないって多分もっと前からわかっていた。でも、すがってしまった。願いを見透かされてしまった。小夜と過ごせる貴重な時間を無駄にして」
    「杠」
    「でも、長には感謝もしてるんです。私が身一つでやっていけるようになったのは長の厳しい指導のおかげですし、本当はこんなことしたくない……」
     甘えるような声色に、長は身体の緊張を解き、静かに息をつく。
    「そうか、では、この粘糸を……」
     ゆっくり振り向くと、杠は花のような笑みを浮かべ、ぺろりと舌を出した。
    「ばか。噓に決まってんでしょ」
    「き、貴様っ……貴様はぁぁっ!」
     言い終わる前に、巻き付いた粘液がぎゅるぎゅると回転し、長の首が宙を舞った。
     胴体から吹きあがった鮮血が、天井板に深紅の花模様を描く。
     ねじ切られた首が二、三度畳の上で跳ね、藩主の足元へと転がった。
    「ひ、ひいっ!」
     腰が抜けたように、柳原はへなへなとその場に崩れ落ちる。
    「た、助けてくれっ。な、た、頼むっ」
     血を浴びて真っ赤に染まった杠に、柳原は懇願するように叫んだ。
    「な、何が欲しいっ。なんでもやろうっ」
    「欲しいものは……もうないかな」
     どこまでも冷たい声に、柳原の股間は失禁でみるみると湿っていく。
    「そ、そ、それでは、何が目的だっ」
    「んー、ただの腹いせ?」
    「は、腹いせ……?」
    「それと、もう一つ……」
     杠は立ち上がれない藩主に背を向け、奥御殿の外に出た。伸ばした粘糸を屋根瓦に貼り付け、城壁をするすると昇っていく。
     辿り着いたのは城の最上階に当たる天守閣だ。屋根に腰を落ち着け、眼下に広がる城下町を見下ろした。遮るものなく吹き通る風が心地よい。
    「さ、そろそろかな」
     杠が呟くと、ひゅるるるっと甲高い音が夜空に響き渡った。
     細い光が筋を描いて天へと昇って行く。
     それは星をちりばめた空に到達し、ぱぁんと弾けた。
     煌(きら)びやかな炎が、視界いっぱいに鮮やかな花を咲かせる。
    「やっぱ本職は違うねー、小夜」
     今宵は城下町の花火大会。
     次々と打ち上がる花火が咲き乱れ、夏の夜を華やかに彩る。妹が見たいと願い、そして見ることの叶わなかった刹那の閃光が、視界の中で幾重にも瞬いた。
     一瞬で咲いて散る─それは短い時間を精いっぱい生きた命の煌めきのようでもある。
     日の当たらない道でも、真っ暗闇の中でも、咲く花はあるのだ。
     夜空に美しく散華(さんげ)する火花を目に焼き付けた後、杠は屋根瓦に寝そべり、ゆっくりと瞼を閉じた。
    「飼い猫……好きな人……家族……美しい景色……」
     呟きとともに、夜を割るような破裂音が次第に遠くなっていく。
     明滅する炎と光を全身に浴びながら、空に最も近い場所で、杠は一人静かに微笑んだ。
  • 「……って、さぎりん。なんで泣いてんの?」
     舞台は神仙郷へと舞い戻る。
     薄闇が辺りをぼんやりと包む中、話を終えた杠は、隣で何度も涙を拭う佐切に言った。
    「だ、だって、杠さんにそんな過去があったなんて……」
     ぐずぐずと鼻を鳴らす佐切に、杠は少し申し訳なさそうに顔を向ける。
    「あ、なんかごめん。でも、気にしないでいいよ。作り話だから」
    「……え?」
     佐切は頰を拭う手を止め、ぽかんと口を開いた。
    「えええええええっ? 作り話なんですかっ」
    「さぎりんがあんまり素直に反応するから、なんか楽しくなっちゃって。なかなかの感動巨編だったよね。暇つぶしに丁度良かったでしょ?」
    「ちょ、ど、どこまで本当で、どこまでが噓なんですか?」
     慌てる佐切に、杠はとぼけた顔で言った。
    「さあ? さぎりんはどう思う?」
    「…………」
     佐切はしばらく脱力した様子でその場に膝(ひざ)をついていたが、やがて諦めたように立ち上がった。
    「……もうっ」
     歩き出した佐切の肩を、杠は後ろから摑む。
    「ごめーん、さぎりん。怒った?」
    「……怒ってません。そういえばあなたは最初からそういう人でした。本当に見せて噓。噓と思わせて本当。虚実織り交ぜ、相手に正体を摑ませない」
    「やっぱり怒ってる?」
    「怒ってません」
     佐切は立ち止まり、じろりと杠を眺めた。
    「画眉丸にとっての奥さん。浅ェ門にとってのお役目。大事にしているものを知ることが、その人を知ることに繫がるのではないかという気が私はしています」
     佐切はそこで息を吐(つ)くと、口元をわずかに緩め、こう続けた。
    「誰にも本心を明かさない。決して安易に馴れ合わない。少なくとも、あなたにとってそれが大切な要素だというのは感じられましたから。だから、話を聞く前より少しだけ杠さんのことが知れた気がします。……まあ、内容の真偽は闇の中ですけどね」
     恨めしげな一言を最後に付け加えて、佐切は微笑を浮かべる。
    「…………」
     杠は何度か瞬きをした後、佐切にぎゅっと抱き着いた。
    「もう。やっぱりさぎりん大好き」
    「……それは本当ですか?」
    「え、本当本当! それだけは本当だって」
    「皆、そろそろ集まってくれ。作戦の最終確認をするぞ」
     洞窟から出てきた士遠が、手を打ち鳴らして一同に呼びかける。
    「じゃ、行こっか。大好きなさぎりん」
    「まったくもう」
     呆れて笑う佐切の手を引っ張りながら、杠は視線を上に向けた。
     岩肌を吹きあがった突風が、ほんの一瞬霧を晴らし、闇に染まりかけた空がわずかに顔を覗(のぞ)かせる。
     霧に縁どられた小さな夜空では、淡い星の光がまるで夏夜の花火の残照のように、儚(はかな)く瞬いていた。
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序幕