地獄楽
『うたかたの夢』より
第四話「桜咲く庭」(士遠・典坐編)
賀来ゆうじ熱筆の
イラスト・ピンナップも掲載!
小説『地獄楽 うたかたの夢』、
絶賛発売中!
第四話
桜咲く庭
  •  寄せては返す波の音。
     神仙郷(しんせんきょう)、上陸初日の夜。島の海岸線沿いの砂浜には、二つの人影があった。
     うち一人(ひとり)、はちがねを額(ひたい)に巻き、瞳に熱を灯した青年──山田浅ェ門典坐(やまだあさえもんてんざ)は、膝(ひざ)を抱えたまま暗がりの海を見つめていた。
     この島に上陸してすぐ脱出を試みたのだが、数多(あまた)の難破船と花化(はなか)した期聖(きしょう)に遭遇した。更に巨大な吸盤を持つ化物に襲われ、結局、この島へと戻ってきてしまったのだ。
     行きはよいよい。帰りはこわい。
     岸へと向かう海流は、まるでこの島自体が張り巡らせた巨大な網のようだ。不老不死という甘い餌に釣られて蜘蛛(くも)の巣に飛びこんだ哀れな獲物をふと想像し、典坐は首を振った。
     ──明日こそは絶対に脱出してやる。
     誓いを込めて拳で砂を叩(たた)くと、その手が横からぎゅっと握られた。
    「うわ、わ。急にどうしたんすか、ヌルガイさん」
     典坐は慌てて、寄り添うように隣に眠る小柄な人物に声をかけた。
     ぼさぼさの髪の毛を頂点でまとめ、肌はこんがりと日に灼(や)けている。
     山の民(サンカ)ヌルガイ。一見すると少年のように見えるが、濡れた衣服を脱いだ際に、実は女性であることが判明した。ヌルガイは眉(まゆ)を寄せて小さく吐息を漏らした。
    「う、ん……」
    「なんだ……寝てるんすね」
     急に手を握られて焦ったが、どうやら寝ぼけているようだ。ゆっくりと指をほどこうとしたところ、ヌルガイの口から懇願するような呻(うめ)きがこぼれた。
    「じいちゃん……みんな、ごめん……ごめん……」
     彼女の目尻から一筋の滴が流れ、その頰(ほお)を滑り落ちる。
    「ヌルガイさん……」
     典坐は指をほどくのをやめ、ヌルガイの耳に口を近づけた。
    「大丈夫。みんなここにいるから」
     優しく声をかけると、ヌルガイはやがて穏やかな表情に戻って、再び安らかに寝息を立て始めた。典坐はその寝顔を眺めて、口元を緩める。
    「大したことはできないっすけど、こんなことで君の孤独が少しでも癒されるなら……」
     彼女の熱が、握った柔らかな手の平から伝わってくる。
     典坐が脱出を考えたのは、彼女を救うためだった。
     他の罪人と違ってヌルガイは何も悪事を犯していない。山で迷った侍を親切心から集落に連れて行っただけなのに、ただ幕府に従属しない山の民であったというだけで、仲間を皆殺しにされ、死罪を宣告された。
    「そんなのは絶対間違ってる。先生だってわかってくれますよね」
     彼女の未来を、可能性を、そんなことで潰していいはずがない。
     それがあの人から受けた教えだと、自分は信じている。
     夜に溶けていく潮騒を耳にしながら、典坐はまだ山田家に入門して間もないあの日々のことを思い出していた。
  • 「なあセンセー、なんでオレみてーなの拾ったんだよ」
     うららかな午後。
     春の陽射しを浴びる道場の縁側で、あぐらをかいた典坐はけだるそうに言った。
    「……言葉遣いは?」
     そばに立つ男が、腕を組んだまま応じる。
     山田浅ェ門士遠(やまだあさえもんしおん)。
     町で暴れていた典坐を引き取り、剣を教えた人物。立場上は兄弟子に当たるが、典坐にとっては師匠のような存在でもあり、敬意を込めて先生と呼ばれていた。
     他人に教えを請うなどまっぴらではあるが、士遠が剣の達人であるのは間違いない。何よりその両目には深い傷があり、典坐の前に広がる道場の裏庭の景色も見えていないはずなのに、その剣技は正確そのものだった。
     仕方なく、典坐は口調を変える。
    「……なんで自分を拾ったっすか?」
    「浅ェ門(われら)の仕事は人命を奪うこと。それ以外の時間は人助けに使いたい。まあ確かにお前は乱暴な所もあるが、芯には可能性を感じている」
     士遠は顔を裏庭に向けながら言った。
    「かー、お偉ぇな。人助けとかイミわかんねぇ」
     腹が膨れる訳でもない。金が貰える訳でもない。人助けなんぞ無駄以外の何物でもない。
     しかも、そのお節介の結果、典坐は処刑執行人たる山田家の門弟にさせられてしまった。
    「さあ、いつまで休んでいるつもりだ、典坐。もう稽古は始まっているぞ」
     師匠の言葉に、典坐は溜め息をついて重たい腰を上げる。
    「……へいへい」
    「返事」
    「はいはい」
    「返事」
    「ああ、もう、はいっす!」
     ああ、うるせえ。
     道場内に戻った典坐には、いつものように士遠による厳しいしごきが待っていた。
     筋力向上のための負荷運動。持久力向上のための走りこみ。そして勿論(もちろん)、剣の技術を徹底的に仕込まれる。
    「握りが甘い」
     素振りを繰り返す典坐の脇で、士遠が腕を組んで言った。
     盲目のはずなのに、適当にやるとすぐに見抜いて檄が飛んでくる。
    「一つ一つの型を丁寧に、確実にこなせ。お前の強みは剣速にあるが、それは基本が伴ってこそ活(い)きるものだ。基本を疎(おろそ)かにするな」
    「わっ、わかってらあ」
    「返事」
    「わっかりましたっ!」
     汗を迸(ほとばし)らせながら、典坐は吠えた。
     そうは言うが、もう素振りの回数は軽く千を超えている。これだけ竹刀(しない)を振り続ければ、雑にもなるというものだ。
    「緩んでいるぞ」
    「あい……すっ!」
     ──くそ。なんでオレはこんなこと……。
     貧民街で生まれ育った。親には自分を食わせる余裕も気力もなかった。気づいた時には、悪い仲間たちとつるんで町で好き勝手するようになった。腹が減ったら盗む、奪う。殺し以外はなんでもやった。眠りたい時に寝て、起きたい時に起きた。自由だった。
     典坐はぐっと奥歯を嚙(か)んだ。
    「でも、オレらの仕事なんて所詮(しょせん)首斬りだろ。なんでここまで真面目(まじめ)くさって鍛錬する必要があんだよ」
    「だからこそだ」
     士遠の言葉が鋭さを帯びる。
    「浅ェ門の仕事は罪人の人生を終わらせること。それは、この世との契(ちぎ)りを断ち切る一刀なのだ。なまくらな腕で命に向き合うことは許さん」
    「…………」
     気力、体力、技術。多くのことを強制的に教わってきたが、士遠が最も口を酸っぱくして説いてきたのは、剣を扱う時の心構えについてだった。
     だが、そんな目に見えないものに意味があるとは思えなかった。
     納得いかない顔をしていると、士遠は組んでいた腕を解いて、竹刀を手に取った。
    「止(や)め。次は立ち稽古だ」
    「ちょっとは休ませてくれよ……」
    「ん、耳まで悪くなってしまったようだ。今なんと?」
    「なんでも、ありませんっ」
     肩で息をしながら、典坐は士遠と向かい合った。
     竹刀の先端と、苦々しい視線を、相手の閉ざされた瞳に向ける。堅苦しい生活を強要されるのも、無意味な稽古で疲弊するのも。そもそも全部この男のせいではないか──

     町で気に食わない侍を相手に暴れていた時に、止めに入ったのがこの男だった。
     相手は盲目。苛立っていたし、ついでにこいつもぶちのめそうと襲いかかった。
     ところが、あっと言う間にやられたのはこっちだった。何をされたのかもわからないうちに、典坐は仰向けに倒れていた。これまで喧嘩(けんか)で負けたことはなかったのに、目の見えない相手に土をつけられたと知られては仲間たちの笑い者だ。
    「ふ、ふざけんなっ」
     立ち上がって向かっていくが、赤子の手をひねるように簡単にひっくり返される。
     士遠は縦横に傷が入った眼を、倒れ伏す典坐に向けた。
    「ふむ……粗さが目立つが、筋は悪くない。度胸もある。お前は宿無しか?」
    「だからなんだよっ」
     嚙みつくように吼(ほ)えると、士遠は少し逡巡(しゅんじゅん)した後、こう言った。
    「強くなりたければ山田の道場に来なさい。少なくとも雨露はしのげる」
    「はあ? なんでオレがそんなとこっ」
    「飯も付いているぞ」
    「…………」
     ぐうと鳴った腹を押さえて、典坐は食ってかかった。
    「馬鹿にすんなっ。食い物くらい必要な時にかっぱらえばいいんだよ」
    「そんな生活を続けていれば、いつかお縄をくらうぞ。現にお前がさっき殴っていた相手は侍だろう。ただで済むと思うのか」
     地面には数人の侍たちが白目を剝いて転がっている。
    「はっ、先に因縁ふっかけてきたのはこいつらだ。見下しやがって、侍なんて大(でぇ)っ嫌(きれ)えだ」
     襤褸切(ぼろき)れをまとった典坐は、同じく侍であろう目の前の男に言い放った。
     すると士遠は、顎(あご)を撫でながら神妙な表情で応じた。
    「やられたからやり返す。つまり……目には目を、ということか」
    「……は?」
    「おや、通じないか。盲目ならではの冗談だ。道場の者は、結構笑ってくれるんだが」
    「全っ然面白くねえよ」
    「そうか……」
     士遠はなぜか少し残念そうに肩を落とすと、左手をゆっくり掲げる。
    「では、こういうのはどうだ。私は左手一本で相手をする。私が勝ったら、お前は門下生になる。お前が勝ったら、私を煮るなり焼くなり好きにしてもいい」
    「はあ? なんだよ、その条件。なんで俺が門下生なんかに」
    「お前に可能性を感じた。それだけだ。こう見えても、見る目はあるほうだからな」
    「それも冗談か? あまりふざけんなよ?」
    「ふざけていても、お前には勝てるさ」
     びきびきと典坐の額に血管が浮き上がった。
    「上等だっ。ぶっ殺す」
     いきり立って跳びかかり──典坐は瞬く間に完敗した。
     士遠はその後、目を覚ました侍たちに、「うちの門下生が大変失礼しました」と、深く頭を下げて謝罪をした。当然、相手は激高して刀を抜きかけたが、士遠は腰のものに手をかけて低い声で言った。
    「侍同士、もし刀を抜かれれば、こちらも応じずにはおれません。動く相手を斬るのは久しぶり。しかも、当方盲目により寸止めは保証しかねますのでご容赦ください」
    「おい、こいつ山田の……」
     侍の一人が士遠の正体に気づいたようで、結局悪態をつくだけで立ち去って行った。
     山田浅ェ門は、忌まわしき首斬り人であり、同時に当代きっての剣の達人でもある。それに御様御用(おためしごよう)を通じて、将軍家や大名とも繫(つな)がりがあるのだ。
     進んでことを構えたい者は、決して多くない。
     颯爽(さっそう)と歩き出した士遠は、典坐を振り返って言った。
    「何をぼうっと突っ立っている。道場はこっちだ」

     そんな経緯(けいい)で山田家の門弟になった訳だが、典坐は大いに騙(だま)された気分だった。確かに屋根と食事は確保されたが、稽古、稽古、稽古の毎日。生活習慣から態度や言葉遣いまで指導を受け、窮屈なことこの上ない。
     しかも、なんだかんだ助けられたという事実が、典坐の癪(しゃく)に障っていた。
    「うおおっ」
     竹刀を振り上げて斬りかかるが、あっさりといなされ、面を打たれてしまう。
     続く立ち合いでも胴を打ち据えられて、典坐は道場に大の字に転がった。
    「ち、畜生っ……」
    「まだ剣の扱いが雑だ。お前の感情を前面に押し出すやり方は否定しないが、それが空回りしている。怒り、そして──迷い」
    「だってよ、こんなことして……」
     何になるんだ、と典坐は思っている。
     元々、処刑人になりたかった訳でもないし、剣の達人を目指していた訳でもない。
     ただ成り行きでここにいるだけだ。苦々しい面持ちで唇を突き出すと、士遠は転がった典坐を見下ろしながら言った。
    「初めから高邁(こうまい)な精神を持って鍛錬に臨めとは言わん。だが、例えばこういう風に考えることもできはしないか。もし、いつかお前に守りたい者ができた時、鍛え上げた剣の腕は必ず助けになると」
    「守りたい者……?」
     そんな相手はいない。
     職なし。宿なし。金なし。親の顔だってまともに覚えちゃいない。守るものなど一つもなかったし、これからだってそうだ。その日その日を好きに生きて、いずれどこかで野垂れ死ぬ。未来の可能性なんかに想いを馳(は)せることなどありはしない。
     ──できるわけねーよ、そんな奴(やつ)。
     不満げに漏らした言葉は、道場の冷たい床板に溶けて消えていった。

     その日、典坐は荷物持ちとして士遠について外出することになっていた。
     花曇りというのか、空はどんよりとした雲に覆われている。
     道場を出る間際、前を歩く士遠がふいに立ち止まった。
    「どうしたんすか」
    「いや、もう春だというのに、あの桜だけがいまだに花をつけないな」
     確かに言われた通り、他の桜が満開の花びらをつける中、庭の端にある一本はいまだ固い蕾(つぼみ)のままだ。
    「ていうか、なんでわかるんだよ。見えねえのに」
    「言葉遣い」
    「……なんでわかるんすか?」
    「芽吹いた蕾(つぼみ)には未来に進む力強さを感じる。あの一本からはそれが感じられない」
    「そんなもんすかね……」
     咲き誇る薄紅色の木々に混じった、場違いな瘦せた桜。
     なんだかそれが自分のように感じられて、典坐は少し嫌な気分になった。
     士遠が手荷物を典坐に預けながら言う。
    「だが、同時に蕾というのはあらゆる可能性を秘めてもいる。いかようにでも化けられるのだからな。どんな花をつけるのか楽しみにしようじゃないか」
    「はあ……」
     生返事をして、典坐は師匠について歩き出した。
     曇り空の下、門を出てからしばらく進むと、士遠はある建物の前で足を止める。
    「ここに用事……?」
     それは寺院だった。砂利を敷き詰めた境内(けいだい)の奥から読経(どきょう)が聞こえてくる。
     処刑執行。刀剣の試し切り。死体の胆囊(たんのう)から作った丸薬。罪人の死を生業(なりわい)にしている山田家では、死人の供養のために懇意の寺に慰霊塔を建立しているのだが、典坐が首を傾(かし)げたのは、その寺が慰霊塔のある寺院ではなかったからだ。
    「個人的な用事だ。お前は待っていなさい」
     そう言って、典坐から荷物を受け取った士遠は、迎え出た和尚(おしょう)に手土産としてそれを渡した。しばらく和尚と話した後に、奥の墓地へと足を向ける。端に立つ小さな墓に手を合わせているようだが、典坐のいる場所からは良く見えない。
     ただ、墓に向かう士遠の背中には、何か言いようのない想いが宿っている気がした。
    「…………」
     所在のない典坐は、一旦寺院の外に出ることにした。
     辛気臭いのは好きじゃない。門の前でぼうっと立っていると、通りの向こうから襤褸(ぼろ)をまとった集団が近づいてきた。
    「おい、典坐じゃねえか」
    「お前ら……!」
     それは悪さをしていた時に、一緒につるんでいた仲間たちだった。
     見習いの立場で、なかなか自由に外出もできなかったため、山田家の門弟になってから会うのは初めてだった。懐かしさがこみ上げてきて、典坐は笑顔で彼らに駆け寄った。
    「久しぶりじゃねえか。元気だったか、お前ら」
     だが、かつての仲間たちの顔に友好の色は見られない。典坐は思わず立ち止まった。
    「どうしたんだよ、おい」
    「典坐よぉ。侍の子飼いになったってのは本当だったんだな」
    「え?」
     言われて、典坐は自分の姿に目を落とした。
     山田家の道着をまとい、腰に木刀を吊(つ)るした格好は、確かにそのように見える。
    「いや、だけどオレは……」
    「侍嫌いなんじゃなかったのかよ。すっかり懐いちまってるじゃねえか。飯と引き換えに魂を売りやがったのか?」
    「それは──」
     一瞬、言葉に詰まる。
     確かに野良で生きていた頃は、もっと好き勝手に過ごしていた。こんな道着をきて、決まった型を反復して、喋(しゃべ)り方まで気を遣いながら、生きてはいなかったはずだ。
    「べ、別に、オレだって好きでやってるわけじゃ……」
    「ああ、そうか。お前は喧嘩に負けて家来になったんだよな」
    「……なんだと?」
     鋭い眼光で睨(にら)みつけるも、かつての仲間たちは互いに顔を見合わせてせせら笑った。
    「しかも、目の見えない相手にコテンパンにのされたそうじゃねえか。あり得ねー。お前、弱くなったんじゃねえの? ひゃははっ」
     気づいた時には、もう相手に殴りかかっていた。
     多勢に無勢(ぶぜい)。だが、火のついた体は止まらない。
     手前の二人(ふたり)に拳を浴びせ、後ろの奴らに飛びかかる。途中で羽交(はが)い締めにされるが、頭突きで跳ね飛ばして、両手足を振り回して応戦した。一度殴られる間に、二度、三度と相手を打ち据える。昔から手数の多さには自信があった。地面に尻をついた男たちに向かって、典坐は大声で吠えた。
    「オレが弱くなったかどうか、確かめてみろよ。ああっ? お前らぶっ殺すぞ」
     典坐は腰にぶら下げた木刀に手を伸ばし──
    「たわけっ!」
     後ろから、ぐっと首根っこを摑(つか)まれて、勢いよく引き倒された。見上げると、そこには厳しい顔つきの師匠の姿がある。士遠は典坐を一瞥(いちべつ)すると、倒れている者たちに向き直って頭を下げた。
    「悪かった。この者は未熟なのだ。私からよく言っておく。本当にすまない」
    「ちっ……」
     侍に頭を下げられては立つ瀬がない。悪友だった者たちは口元の血を拭いながら立ち上がると、典坐を睨みつけて去って行った。
     士遠は立ち去る者たちの背中に顔を向けたまま、重たい声で言った。
    「典坐」
    「だ、だってよ、あいつらが……」
    「感情に振り回されるなと言ったはずだ。感情を持つことは否定せんが、それは正しい方向に制御しなければ、単なる意志なき暴発になる」
    「だけどっ」
     反論しようとしたら、襟首を両手で摑まれ、強引に立たされた。
     そのまま後ろの壁に、どすんと激しく押しつけられる。
    「典坐。本当に殺していたら、お前が死罪になっていたかもしれんのだぞ。こんなことで自分の可能性を潰す気かっ」
     いつになく士遠の表情と言葉は厳しく、本気の怒りをひしひしとその身に感じる。
     だが、いや、だからなのか、典坐は俯(うつむ)いたまま呟(つぶや)いた。
    「……ねえよ」
     顔を上げ、眉をひそめた目の前の相手を威嚇(いかく)するように口を開く。
    「どうせ可能性なんてねえよっ。身分もねえ。金もねえ。生まれた時から、オレに可能性なんかねえんだよっ」
    「…………」
     襟首を摑んだまま沈黙する士遠に、典坐は言い放った。
    「辞めてやる」
    「……何?」
    「辞めてやるよっ。もうこんな堅苦しい生活はまっぴらなんだよ! 剣の型だの、心の持ち方だの、どうでもいいんだよ! オレは好きに生きたいんだ!」
     大声で吠えると、士遠はゆっくりと襟から手を離した。
    「本気で言っているのか」
    「ああ、本気だね」
     睨みつけながら言うと、士遠はしばらく黙った後、口を開いた。
    「……だったら、条件がある」
    「条件?」
    「お前は私に負けて門弟になったのだから、出て行きたいなら私に勝利せねばならん。それが道理だろう」
    「そ、そんなこと」
    「できる訳ないか? 目の見えない相手に、随分と自信なさげじゃないか。さっきまでの強気はどうした」
    「じ、自信がねえ訳じゃねえっ」
     強がる典坐に、士遠は右手の人差し指をぴんと立てて見せた。
    「一本でいい。私から一本を取ってみせろ。どんな状況でも構わん。一本取れたら、お前が辞めるのを認めよう」
     わずかな沈黙の後、典坐は士遠の閉じた瞳を見つめた。
    「一本でいいんだな?」
    「ああ」
    「どんな状況でも?」
    「ああ」
     道場で正面から向かい合えば勝ち目は薄いが、どんな状況でもいいと言うなら話は別だ。
     互いに礼をして立ち合うなんていうお行儀の良い剣法は性に合っていない。
     不意打ち、闇討ち、元々そういうやり方のほうが得意なのだ。
    「わかった。男に二言はねえからな」
     念を押すと、士遠はおもむろに腕を組んで、首を縦に振った。
    「約束しよう」
  •  ──さて、どうすっかな。
     その後、道場に戻った典坐は、端であぐらをかきながら頰杖をついた。
     どうやってあの男から一本を取るか。
     実は寺院からの帰り道に、早速後ろから木刀を振り下ろしてみたのだが、あっさりかわされてしまった。さすがに約束した直後だったため、警戒されていたのだろう。
     師匠の士遠は、近いうちに御様御用で七日ほど道場を留守にすると聞いている。一刻も早く道場からオサラバしたい身としては、できれば士遠が旅立つ前に片をつけたい。
     だが、正攻法でいくのは現実的ではない。
     ──付け入る隙があるとすれば……。
     やはり、目だろう。
     日々接していると忘れそうになるが、士遠は目が見えないのだ。おそらく音や大気の流れ、つまり聴覚や触覚などの視覚以外の感覚で補っており、それがとんでもない水準にはあるのだろうが、どうしても見えている者と比べると反応は遅れるはず。
    「よし……」
     典坐は顔を上げた。

     作戦其(そ)の一──陽動。
     その日、士遠との立ち合い稽古で、道場で小さなどよめきが起こった。
     典坐が竹刀を二本、手に取ったのだ。勿論二刀流で戦うつもりはなく、士遠の鋭すぎる感覚を逆に利用しようと典坐は考えていた。
     向かい合って礼をする。その直後、典坐は片方の竹刀を放り投げた。それはゆるい放物線を描いて士遠の頭上を飛び越え、その背後にカツンッと音を立てて落ちる。
     ──今だっ!
     典坐は同時に床を蹴った。突然後ろで音がしたら、嫌でも気を取られるはず。特に、聴覚に多くを頼っているであろう相手なら尚更だ。
     士遠は一瞬、後ろを振り返った──かに思えたが、すぐに口元に笑みを浮かべる。
    「踏みこみが弱いぞ」
    「えっ」
     典坐の面は軽々と受け流され、代わりに胴を一閃(いっせん)された。
    「うぐっ」
     パシィと乾いた音が鳴った。腹を押さえて蹲(うずくま)る典坐に、師匠は涼しい顔を向ける。
    「まだ工夫が足りないな。見通しが甘いぞ」
    「ち、畜生っ」

     作戦其の二──不意打ち。
     今のは少々狙いすぎた。冗談で返す余裕すら相手にはあった。確かにあんな風に向かっていけば、何かあると警戒させてしまう。
     だったら次は予想もしていない状況で、攻撃がきたらどうだろう。
    「センセー、庭で打ちこみをしてきます」
    「ああ」
     士遠の許可を取って、庭に降り立った典坐は、並んだ巻(ま)き藁(わら)を相手に竹刀を振り始めた。
     振り下ろし。横薙(よこな)ぎ。袈裟懸(けさが)け。角度を変えながら、巻き藁に打ちこんでいく。
     表向きは真面目な態度を示しつつ、典坐は密(ひそ)かに不意打ちの機会を探ることにした。
     道場の戸は全て開放されているため、庭から道場内の様子がよく見える。竹刀を振りながら、横目で道場内に立つ士遠の様子を観察すると、衛善(えいぜん)と何かを話しているようだ。
     二人の顔がふと庭に向かった。
     ──いけねっ。
     慌てて視線を逸らして巻き藁に打ちこみを続けるが、どうやら彼らが注意を払っているのは、庭の奥に咲いている桜のようだ。士遠は腕組みをして、すぅと息を吸って言った。
    「いい香りだ。今年も見事に咲いたようですなぁ」
    「うむ。後は一本だけか。稽古終わりに花を肴(さかな)に一杯いきたいところだ」
    「私は昆布茶(こぶちゃ)を所望したいですな」
    「ほう、それも悪くない」
     ──ジジイかよ。
     この二人、時々妙に年寄りじみたところがある。
     そのまま観察を続けると、道場内で、期聖と源嗣(げんじ)が激しい打ち合いを始めた。
     やがて、期聖が右手を高々と掲げる。
    「よっしゃ、一本。俺の勝ちだ」
    「ふん、今のは油断しただけだ。これでお前が六百二十七勝、拙者が六百三十一勝か」
     苦々しい顔で舌打ちした源嗣に、期聖が食ってかかった。
    「はあ、逆だろ? 勝ち越してんのは俺だろうが」
    「何を言っている。勝ち越しは拙者だ」
    「数字も覚えられねえのかよ。これだから脳筋野郎は」
    「なんだと、このひねくれ坊主」
     あの二人は同期らしく、仲が良いのか悪いのか、よくいがみ合っている。
     二人の奥では、付知(ふち)と仙汰(せんた)が難しい顔をして話しこんでいた。
    「ねえ、仙ちゃんはどっちだと思う?」
    「いやぁ、僕にはなんとも……」
    「確かに一概には言えないけど、どちらかと言えば右だと思うんだ。左に比べれば少し低い位置にあるし、それが奥ゆかしさを表していると思わない? うーん、でも左は左で捨てがたいなぁ」
     付知が難しい顔をして、頭を抱えた。
     なんの話をしているのかと思って注意を払っていると、仙汰が困ったように答えた。
    「でも、左右どっちの腎臓が可愛いかなんて尋ねられても……」
     がく、と典坐の膝が折れた。
     ──ったく、本当に変な野郎ばっかりだ。
     だが、もうどうでもいい。
     どうせ自分はすぐにここから出て、自由の身に戻るのだから。
    「ええと、士遠さんはどう思います?」
     仙汰が助けを求めるように、士遠に声をかけた。衛善は既にその場を離れている。
    「難問だな……。というか、私に聞かれてもな」
     士遠の意識は今、完全に道場内へと向いている。
     ──ここだ!
     典坐は大きく息を吸って、竹刀を思い切り横に薙いだ。それは巻き藁に当たることなく、すっぽ抜けたように典坐の手から離れ、士遠の背中に飛んでいった。
     勿論、故意である。
     士遠の注意が逸れるのを、ずっと待っていたのだ。
     まさか話している最中に後ろから竹刀が飛んでくるとは思うまい。
     予想だにしない方向からの一撃。かわす術(すべ)はない。
    「よし、いっぽ……!」
     パシィィィ!
     ──え?
     突き上げかけた典坐の拳が止まった。士遠は何食わぬ顔で、飛んできた竹刀を受け止めていた。そのまま庭に降りて、典坐の手に握らせる。
    「竹刀が飛んでいくのは、握りが甘いからだ、典坐。何度も言っているだろう」
    「う……うす」
     また、失敗。

     作戦其の三──両手を塞ぐ。
     もうわかった。師匠相手に、中途半端な不意打ちは通用しない。すぐに気配を察知して、受け止められてしまう。
     であれば、強制的に両手が使えない状況で、打ちこんでみるのはどうだろう。
    「センセー、お茶いかがっすか」
     休憩時間になって、典坐は奥の座敷にいる士遠のもとを訪ねた。
    「ほう、気が利くじゃないか」
     顔をこちらに向けた士遠に、盆から湯飲みを手渡す。
    「この香り、昆布茶か。ありがたい、ちょうど飲みたいと思っていたところだ」
    「わかるんすか」
    「勿論だよ。私は昆布茶に目がないんだ」
    「センセー、本当に冗談が好きっすね……」
    「なかなかお前が笑ってくれんからな」
     ──今はそれどころじゃねえんだよ。
     早くこの男から一本を取らなければ、自由は得られないのだ。
     内心で思いながら、典坐は師匠の様子をじっと眺めた。
     士遠は湯飲みに両手を添え、湯気の立ち昇る表面にふーっと息を吹きかけている。
     そして、ゆっくりと口元へと持って行った。
     ──ここだぁっ!
     典坐は背中に隠し持っていた竹刀を、勢いよく士遠の頭上に振り下ろした。
     両手が塞がっている瞬間。仮に攻撃を察知したとしても、受け止めることはできない。
    「よし、いっぽ……あっちぃぃ!」
     典坐はその場で跳び上がった。士遠が咄嗟(とっさ)に、手にした茶を典坐に振りかけたのだ。
    「あつっ、あつつつっ」
     慌てて熱湯をかぶった道着を脱ぐ典坐に、士遠は涼しい顔で言った。
    「すまんな。うっかり零(こぼ)してしまったよ」
    「く、くそぉぉ」
     再び失敗。

     その後の挑戦も悉(ことごと)く不成功に終わり、いよいよ明日は士遠が遠出する日となった。
     次に帰ってくるのは七日後。今日を逃すと、しばらく間が空いてしまう。こちとら一日でも早く辞めたいというのに。
    「どうすりゃいいんだ……」
     道場の隅でうんうん唸(うな)っていると、佐切(さぎり)が近寄ってきた。
    「典坐殿。そんなところで頭を抱えてどうしたのです。頭痛なら付知殿が良い薬を持っていますよ」
    「ち、違っ。か、考えごとっすよ」
     典坐はしどろもどろに答えた。どうも佐切が相手だと、いつもの調子が出ない。
     自分が女慣れしていないせいもあるし、相手が当主の娘という立場のせいもある。
     しかも、佐切は綺麗(きれい)な顔立ちをしているので、近づくと緊張してしまうのだ。
     答えを聞いた佐切は露骨に驚いた顔を見せた。
    「典坐殿が……考えごとを?」
    「オ、オレだって考えごとくらいするっすよ。そりゃ頭は良くねーけど」
    「何を考えているんですか?」
    「それは……」
     少し言い淀(よど)んだ典坐だが、一人で考えても埒(らち)が明かない。
     今師匠はそばにいないし、結局聞いてみることにした。
    「士遠先生から一本取る方法?」
    「どうしても今日中に一本取りたいんすよ」
    「随分と急ですね。何か理由でも?」
    「べ、別に……」
     道場を辞めるため、とは言えないか。
     佐切はしばらく考えた後、拳をぐっと握ってみせた。
    「それはやはり鍛錬しかないでしょう」
    「真面目っすか」
     思わず突っこんだ典坐は、肩を落として溜め息をつく。
    「正攻法じゃ無理だから悩んでるんじゃないっすか」
    「そうでしょうか」
    「え?」
     顔を上げると、佐切は当たり前のように言った。
    「士遠先生は常々、典坐殿には才覚と可能性があると言っていました。一直線なところが典坐殿の良い部分でもありますし、変に考えすぎず真面目に修行すれば、典坐殿なら必ず一本取れますよ」
     ──また可能性かよ。
     クズ。ろくでなし。ごく潰し。世間からずっとそんな風に後ろ指を差されて生きてきたのだ。今さら取ってつけたように言われても、信じることなどできるはずがない。
     ──ねえよ、可能性なんて……。
     やはり相談など無意味だった。自分でなんとかするしかない。
     かくなる上は──

     深夜。
     稽古やお役目が終われば、多くの門弟たちは各自の家へと帰るが、宿なしの典坐は、師匠の住居に居候をしていた。
     ひっそりと静まった家の廊下を、そろそろと移動する影がある。
     足音を立てないよう注意を払いながら、典坐は士遠の寝所の前で腰を落とした。
     闇討ち。それが典坐の選んだ手段だった。
     睡眠中に攻撃を受けて防げる人間はいない。武士道とやらには反するかもしれないが、どんな状況でもいいと言ったのは師匠なのだ。
     息を殺しながら、ゆっくりと襖(ふすま)を開ける。これまで師匠の部屋に入ったことはなかったが、見る限り簡素な畳敷きの造りのようだ。
     暗闇の向こうから、静かな寝息が聞こえてくる。標的は布団で寝入っているようだ。
     竹刀を片手にすり足で部屋へと侵入した時、床の間に何かが置いてあるのに気づいた。
     ──位牌(いはい)?
     それは簡素な木造の位牌だった。彫られた文字は読めないし、師匠の部屋にどうしてそんなものがあるのか不思議に思ったが、典坐はすぐに首を振った。
     今そんなことはどうでもいい。大事なのは標的から一本を取ることだ。
     典坐は気配を消して、士遠の枕元へと歩み寄る。
     呼吸で布団がゆっくりと上下している。典坐は息を止めて、大きく竹刀を振りかぶった。
     ──悪く思うなよ、センセー。
     今度こそ確実だ。典坐は士遠の額を目掛け、真っすぐに竹刀を振り下ろした。が──
    「お前の夜這(よば)いは歓迎せんな」
    「──!」
     師匠がふいに言葉を発し、竹刀は空の布団を叩いた。脇から転がり出た士遠は、典坐の竹刀を素早く奪い取り、反転しながらその脛(すね)を打ち抜く。
    「いってぇぇっ」
     顔を歪(ゆが)めて座りこむ典坐に対して、士遠は飄々(ひょうひょう)とした様子だ。
    「視界に頼る人間には暗闇や死角からの攻撃が有効だが、生憎(あいにく)私はそうじゃない。いい加減小細工は通用しないことがわかっただろう」
     そろそろ真正面から向かってこい、と言っているのだ。
     それをわからせるために、どんな状況でも攻撃可能という条件を出した訳か。
     ──くそ……。
     こうして最後の機会も、敢(あ)え無(な)く失敗に終わった。
     結局、翌早朝になり、士遠は典坐に「留守を頼む」と申しつけて外出してしまった。強引に弟子入りさせられてから、これまで一度たりとも一本を取ることができないでいる。
     師匠が帰ってくるのは七日後。
     だから──典坐に残された手段は、もう一つだけだった。
  •  ──悪いな、センセー……。
     早朝、士遠が家を後にして間もなくのこと。
     戸締りを終えた典坐は、辺りの様子を確認しながら、早足で師匠の家から離れようとしていた。朝稽古に向かう訳ではない。足の向かう先は、道場と反対側の道だ。
     脱走。
     多少の後ろめたさはあるが、士遠が留守にした隙に逃げ出すのが最後の手段だった。
     このままでは、いつになったら一本取れるかわからない。むしろ、士遠は苦闘する典坐の様を楽しんでいるような気すら最近してきている。これは辞めると言った自分への嫌がらせなのではないか。
     だとしたら、これ以上付き合ってやる義理などない。
     一刻も早く、変人ばかりが集う道場の、がんじがらめの生活から抜け出すのだ。
     しかし、勇んで進めた足は、最初の曲がり角で止まった。
    「どこに行く気だ。道場は反対側だぞ」
    「衛善さん……!」
     背後からの声に振り返ると、そこには左眼に眼帯をした男が腕を組んで立っていた。
     ──待ち伏せされていた?
     典坐はぐっと唇を嚙んだ。
    「センセーに頼まれて、オレを見張りにやってきたのかよ?」
    「考えすぎだ。朝の散歩中に偶然通りがかっただけだ」
     衛善はどこまで本気かわからない調子で言って、ゆらりと一歩踏み出した。
    「ただ、お前と士遠が約束をしたのは聞いたぞ。一本を取ったらここを辞めると。お前は一本取ったのか?」
    「いや……」
    「男が一度口にした約束を反故(ほご)にする気か。それでも侍か」
    「侍になりたかった訳じゃねえ」
    「ならばお前は、何を目指している」
    「それは……」
     すぐに答えられない自分に典坐は気づいた。
     未来というものを、具体的に想像したことがなかったからだ。
     いずれ野垂れ死ぬだけの人生に、そんなものがあると思っていなかった。
    「オレを……連れ戻す気か?」
     てっきりそのつもりかと思ったが、衛善は軽く首をひねっただけだ。
    「好きにするがいいさ。私は士遠と違って、意欲のない者を必死に留(とど)めるほど暇じゃない」
    「……じゃあ、そうさせてもらいます」
    「だが、最後に散歩くらい付き合え。早起きするとやることがなくてな。最近は散歩が趣味なんだ」
     相変わらずジジ臭い話題だが、どこまで本気かよくわからない。
     しかし、この状況で断る訳にもいかず、典坐は黙って衛善の後に続くことにした。
     路傍の花を愛(め)でながら、衛善は機嫌良さそうに朝の散歩を続けている。用心しながら付いていくと、衛善が入ったのは前に士遠と来た寺院だった。
    「……?」
     朝靄(あさもや)の立ちこめる境内で、砂利の音を響かせながら、衛善は奥の墓場へと典坐を連れて行った。辿(たど)り着いたのは、端にある小さな墓だ。
     前に来た時に、士遠が手を合わせていたのを覚えている。
    「……どういうつもりっすか」
    「何、散歩ついでに墓参りをな。お前はこれが誰の墓か知っているか?」
    「そんなん知る訳ないでしょ」
    「そうか、士遠は言っていないようだな」
     衛善は、墓に彫られた文字を眺めてこう続けた。
    「ここに眠るのは、鉄心(てっしん)という名で、かつての士遠の弟弟子だった男だ」
    「弟弟子……?」
    「もう随分前のことだがな。お前に似て、とにかく素行が悪い奴だった。半(なか)ば親に勘当されるような形で山田家の門をくぐった。それで士遠が指導役を務めることになった」
    「…………」
     何が言いたいかわからず、典坐は怪訝(けげん)な表情で、衛善の横顔を見つめた。
    「才能は間違いなくあったが、如何(いかん)せんやる気というか、著しく意欲に欠けるところがあってな。道場での生活を堅苦しく感じていたようだ。その辺りも、お前みたいな奴だ」
    「じゃあ、随分とセンセーにしごかれたでしょ。オレみたいに」
     すると衛善は首を横に振った。
    「当時の士遠はどちらかというと自分の技術を上げることに執心していてな。今ほど弟弟子の指導に熱心ではなかった。士遠も鉄心の才能は認めていたし、素行は悪いものの憎めない奴で二人の仲は決して悪くなかったが、修行嫌いはどうしようもないと諦めていたな」
    「へえ」
    「結局、鉄心は好きに生きるという捨て台詞を残して道場を逃げ出した。それこそ、今のお前のようにな」
    「……何が言いたいんすか」
     わざわざこんなところまで連れてきた意味がわからない。
     典坐が尋ねると、衛善は顔を墓石に向けたまま続けた。
    「鉄心は手のつけられない乱暴者だったが、いざいなくなってみると、あいつの悪態も懐かしく感じられたな。とは言え、しばらくは何も変わらない日々が続いた。我らは腕を磨き、御様御用をこなす。いつも通りの日々だ」
    「…………」
     淡々とした衛善の口調に、典坐はなぜかざらりとした嫌な感覚を覚えた。
    「その日もいつもと同じように士遠は御様御用に出かけた。死罪人の罪は窃盗・殺人。所謂(いわゆる)押し入り強盗というやつだ。これもよくある話だ。士遠は仕事を果たすため、いつものように口縄をつけられ、紙で顔を覆われた罪人の脇に立った。しかし、振り上げた刀を、士遠はなかなか打ち降ろさなかった」
    「まさか……」
     ふいに訪れた予感に、とくんとくんと鼓動が速まるのを感じる。
    「ああ、相手の佇(たたず)まい、雰囲気から士遠は気づいたんだ。目の前の罪人が鉄心だとな」
    「……!」
     半ば予想された、しかし衝撃的な答えに、典坐は無意識に自身の胸を押さえた。
     本堂から朝の読経がしめやかに響き始める。
    「鉄心は道場を逃げ出した後、あちこちを放浪していたようだ。しかし、いつまでもそんな暮らしは続かん。やがて食うに困って民家に押し入り、抵抗した相手をはずみで殺してしまった。そのつもりはなかったかもしれんが、あいつは腕っぷしが強かったし、打ち所が悪ければ充分に相手を死に至らしめるくらいの力はあった」
     典坐はごくりと喉を鳴らした。
    「センセーは結局……どうしたんすか?」
    「無論斬ったさ。山田浅ェ門の刀は時代が振り下ろす刀。個人の感情で処刑を思い留(とど)まるなどあってはならない」
    「…………」
     沈黙する典坐に、衛善はぽつりと言った。
    「鉄心は少しも抵抗しなかったそうだ。士遠が鉄心に気づいたように、鉄心も士遠に気づいたんだろう。打ち首を言い渡された以上、山田浅ェ門の誰かが斬首(ざんしゅ)にやってくることは想像できた訳だしな。口縄をはめられてはいたが、士遠ははっきりと鉄心の最期の言葉を聞いた」
    「な、なんて……」
    「あいつはこう言ったんだと。──先生、ごめんなさい、と」
    「…………」
     典坐は何と言っていいのかわからなかった。
     ただ、言葉にできない感情が胸の中で渦を巻いていた。
    「自業自得と言えばそれまでだが、あの時の士遠の様子は見ていられなかったな。鉄心には確かな才能と可能性があった。なのに、士遠はその可能性を、摘み取ってしまったと激しく悔いていた。あいつが弟弟子の指導に熱を入れ、人助けをするようになったのはそれからだ」
    「そんなことが……」
     墓に手を合わせていた師匠の背中と、部屋にひっそりと安置されていた位牌を典坐は思い出す。
    「センセーは……センセーは、オレを……」
    「無頼者(ぶらいもの)として生きれば、いずれ鉄心のような末路を辿るかもしれん。お前の才能はそうやって潰れていくには惜しいと感じたのだろう。だが、出て行くという奴を止められはせん。だから、士遠は条件を出した」
    「センセーから……一本を取る」
     衛善は首を縦に振った。
    「士遠から一本を取れるくらいの実力があれば、いざとなれば剣の道で身を立てることもできるだろう。お前が道場を辞めても、食っていく道を拓(ひら)くことができる」
     ああ、と典坐は呻いた。
     嫌がらせなどではなかったのだ。あろうはずがなかったのだ。
     日頃の厳しい修行も。
     困難な条件も。
     昔の仲間たちと揉(も)めて、殺すぞと相手を脅した時、士遠は本気で怒っていた。
     それらは全て──
    「どうする? お前は一本も取らずに逃げ出すのか?」
     衛善の問いに、典坐は立ちすくんだまま、両の拳を痛いほど握りしめた。
    「オレは、オレは──……」
  •  七日後。
     スズメのさえずる朝に、用事を終えた士遠が、山田家の道場に戻ってきた。
     門をくぐるなり、その前に立ちはだかる影があった。
    「典坐か」
    「センセー、立ち合い稽古をしてくれ」
     竹刀を握った典坐は、真っすぐに士遠を見て言った。
     まるで戦場から帰ったように、その体には幾つもの生傷が刻まれている。
    「おい、典坐。センセイは長旅で疲れてんだぞ」
     後ろから期聖が言うが、士遠は少し口の端を上げて答えた。
    「構わんよ」
     荷物を下ろし、道着に着替えた師匠と、典坐は道場で向かい合う。
     互いに礼をして、竹刀の先を軽く合わせると、すぐに戦いが開始した。
    「はっ!」
     踏みこみとともに典坐は得物を一閃。それを受けた士遠が、素早く打ち返す。
     咄嗟に一歩下がった典坐は、師匠の一振りをかわし、再度打ちこむ。
     二人の竹刀が幾度も交わり、衝撃音が道場に立て続けに響いた。
    「ほう」
     士遠が短く息を吐く。
     ──さぼってはいなかったようだな。
     言葉はなかったが、そう聞こえた気がした。いや、言葉などいらない。その打ち筋が、その一撃が、その踏みこみが、全てを雄弁に語っているのだから。
     ──ああ、真面目にやったさ。人生で一番真面目に。
     想いを乗せて、典坐は士遠に打ちこむ。
     衛善から師匠の昔の弟弟子の話を聞いた後、典坐の中で何かが変わった。
     居ても立っても居られなくなり、すぐに道場に戻って、素振りを開始した。
     そして、兄弟子たちに頭を下げて教えを請うた。
     衛善は正しい型を丁寧に教えてくれた。
     面倒臭いと言いながら、期聖が立ち合いの相手をしてくれた。
     源嗣の力業、佐切の技術は、戦いの幅を広げるのに大いに参考になった。
     仙汰は剣術の理論を説明してくれ、付知は人体の構造を教えてくれた。
     十禾(じっか)の遊郭の誘いは断ったが、その後は渋々修行につきあってくれた。
     変人ばかりだと、どこかで斜めに見ていた彼らは、例外なく剣の達人だった。
    「だが、まだ脇が甘いぞ」
     それでも師匠との実力差は歴然としてある。
     一瞬の隙をつかれ、脳天に鋭い一撃をお見舞いされた。
    「もう一回っ!」
     しかし、典坐は諦めない。
     すぐに一礼をすると、体勢を立て直して士遠に向かっていく。
     打ち、流され、薙いで、受けられ、返す刀で胴を突かれる。
     呻く時間はほんのわずか、すぐに立ち合いを再開する。
     何度も。
     何度でも。
     だが、そのたびに士遠の鋭い剣技が典坐を容赦なく打ち据えた。
     もうどれくらいやられただろうか。激しく息が上がり、肩が大きく上下する。これまでならとっくに諦めて、床に大の字に寝転がっていたはず。
     それでも典坐は立ち向かっていく。
    「まだまだぁ!」
     腹が減れば奪う。気に入らなければ殴る。
     これまでの人生、その時々で、気の向くまま風の向くまま、好きなように生きてきた。
     しかし、ふらふらと漂っていた意志は、たった今明確な焦点を結んでいる。
     ──一本を……一本を取りたい。
     ほんの少し先の、しかし、はっきりとした未来の目標を典坐は心に抱いた。
     ──この人から、一本を取りたいんだ。
     クズ。ろくでなし。ごく潰し。
     ずっとそう言われて生きてきた自分の、可能性を初めて信じてくれた人から。
     そして、信じ続けてくれた人から。
     小細工を弄するのではなく、正面から挑んで認められたい。
     ──なあ、センセー。オレは──。
     無数に交錯する竹の刃。
     激しく交わる鮮烈な一振り一振りが、千の言葉を交わすよりも濃い想いを伝え届ける。
     ──オレは……オレの可能性を、信じてもいいのかな……?
     身分もない。金もない。宿もない。
     可能性なんてない。
     これまでずっと、そうやって何かのせいにしてきた。
     だけど、誰よりも自分の可能性を信じていなかったのは、自分自身だったのだ。
     ──こんなオレでも、未来を願っていいのかな……?
     この道場で、
     仲間とともに腕を磨き、
     時に厳しく、激しく、それでも笑い合って、
     そんな未来を、自分も思い描いていいのだろうか。
     そして、いつか師匠が言ったように──……
     ──オレにも……オレにも、守りたい人ができるのかな……?
     そのための技を、
     そのための心を、
     そのための強さを、
     自分は手に入れられるのだろうか。
     汗にまみれた典坐の頰を、一筋の熱い滴が流れ落ちる。
     滲(にじ)む視界の中で、士遠がほんの少し笑った気がした。
     直後、ふいに世界がゆっくりと動いて見えた。
     気力、体力、技術の限界を超えた先にふと訪れた一瞬の閃(ひらめ)きが、典坐に寸刻先の未来を予感させる。
     面がくる──
    「小手ぇっ!」
     パシィと細く高い音が、道場に響きわたった。
     士遠の振り上げた手首を、典坐の竹刀の先がしっかりと捉えていた。
     辺りは時が止まったかのような静寂に包まれる。
     無我夢中だった。打った典坐すら何が起きたのかわからず、しばらく呆然(ぼうぜん)としていた。
     そして、恐る恐る呟いた。
    「取った……?」
     見守っていた兄弟子たちの笑顔で、ようやく実感が伴ってくる。
     取った。自分は、遂にこの人から──
    「おっしゃあぁぁぁっ! 一本、取ったぞぉぉぉーっ!」
     両手を天井に突き上げて、雄叫びを上げる。
    「道場で騒がない」
    「あたっ」
     師匠に竹刀の先で小突かれて、典坐は額を押さえた。
    「だが……見事だった」
     士遠は少しだけ表情を緩め、しかし、すぐに口元を引き締めて言った。
    「合格だ。後は好きにしなさい」
    「…………」
     一本を取れば辞めることを認める。
     その条件のことは道場の兄弟子たちも知っていた。
     彼らが固唾(かたず)を飲んで見守る中、典坐は黙って道場の板の間に腰を下ろした。
     真正面から師匠を見据えて、おもむろに口を開く。
    「センセー」
     もう、心は決まっていた。
     伝える言葉はわかっていた。
    「これからも……これからもオレに剣を教え……あ、いやっ」
     そこで気づいたように居住まいを正すと、典坐は床に手をついて頭を下げた。
    「先生っ! これからも自分に剣を教えてくださいっす!」
     今日一番の大声が道場に響き渡り、そして──
    「勿論だ」
     士遠は何かを嚙みしめるように、ゆっくりと首を縦に振った。
     過去を思い返すように、しばし虚空に顔を向け、再び典坐に向き直る。
    「だが、厳しい道だぞ」
    「望むところっす。もう中途半端に辞めるなんてできないっす」
     典坐は勢いよく答えて、にやりと笑った。
    「だって、先生にはたくさん目をかけてもらいましたから」
    「……どうやらもう一本取られたようだ」
     士遠が口元を綻(ほころ)ばせ、道場に小さな笑い声が起こる。
     春の香りを乗せた風が、開け放った扉を通り過ぎていった。
    「ほう……」
     縁側に目をやった衛善がふいに声を漏らす。
    「どうしたのですか、衛善殿?」
     隣に立っていた佐切が尋ねると、衛善は笑みを浮かべて答えた。
    「いや、しっかり咲いたじゃないか」
     庭に並ぶ桜の木。硬い蕾に覆われていた最後の一本が、柔らかな朝陽に包まれて、見事な花を咲かせていた。
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第四話 桜咲く庭
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賀来ゆうじ熱筆の
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