しかし、一刻(いっとき)後。
杠と茂籠牧耶の間には、早くも剣吞(けんのん)な空気が流れていた。
「アンタ、可愛い顔して結構な無茶をやってくれるわねぇ」
「ごめんってば、まっきー。ね、謝ってるじゃん」
額に青筋を浮かべた牧耶に、杠が両手を合わせて頭を下げている。
「でも、まっきーにこっちの情報は渡したでしょ」
「植物や石像の説明なんて聞いたところで、なんの足しにもならないわ。そんなものでチャラにしようというつもり?」
「協力しようって言ったじゃん。まずは情報収集が大事って意見も一致したし」
「やり方が良くなかったわねぇ」
牧耶の口調と視線に、冷たい殺気が混じる。
しかし、それもさもありなん、と脇で聞いている仙汰は思った。
杠は牧耶との共闘に当たって、こちらがこれまでに集めた情報を渡す代わりに、牧耶側にも新たな情報の提供を求めた。
それは森で見かけた奇怪な生き物──人の顔を持つ蝶の観察。
結果として牧耶は人面蝶の鱗粉を間近で浴びることになった。量が少なかったためか、大した障害はなかったが、牧耶としてはいい実験台にされたようなものだ。
杠は取り繕うように、まくし立てる。
「でも、ほら。まっきーのおかげで貴重な情報も得られたし。あのキモい人面蝶の鱗粉には、どうやら毒の成分が含まれているらしいことがわかったじゃん。本当、超助かるー」
「他に言い残したいことはある?」
牧耶はゆっくりと右手を上げた。
あの爪(つめ)だ。
五本の指に備わった長く鋭利な爪で、選別の際の罪人や、ここに来る途中の幕府の船で役人を切り刻むのを仙汰は見た。
二人の距離が徐々に縮まり、杠の背中に緊張感が漂う。
今度こそ決闘が始まる──争いが飛び火した時のために、仙汰の手が刀の柄(つか)に伸びた。
だが──
「……なんてね」
ふいに微笑んで、牧耶は手を下ろした。
「ふふ、驚いた? 別に怒っていないわ」
目をぱちくりと瞬かせる杠に、牧耶は言った。
「だって、どうせアタシが死なないのはわかっていたし」
「……どういうこと?」
杠が怪訝(けげん)な表情を浮かべる。
「なぜなら、まだアタシは天命を果たしていないからよ」
「…………」
ずい、と牧耶はその顔を杠に寄せた。
「この世には二種類の人間がいる。天命を持って生まれてきた人間と、そうでない人間。アタシは前者、アンタは後者」
「よくわかんないんだけど」
「アンタ、人が死んだらどうなるか知ってる?」
「さあ? 死ねば土に還(かえ)るだけじゃない」
「ノン。アタシは魂のことを言ってるの」
「そんなの知る訳ないじゃん。死んだことないしー」
とぼけつつも、牧耶の醸し出す奇妙な迫力に、杠の足が一歩後ろに下がった。
牧耶の瞳が、今度は監視役の仙汰に向く。
「眼鏡。この中じゃ、アンタが一番わかっていそうね。どうかしら?」
「……その、様々な解釈がありますが、死後には死後の世界があるというのが、多くの宗教で共通している考え方かと。内容は多岐に亘(わた)りますが、典型的な世界観としては、極楽または天国という苦しみから解放された世界と、地獄または奈落とも言う苦しみに満ちた世界があるとされることが多いようです」
眼鏡の位置を直しながら仙汰が答えると、牧耶はうっすらと笑みを浮かべた。
「そうねぇ。じゃあ極楽と地獄、行き先はどうやって決まるの?」
「ええと……一般的には、生前の行いや、信心の強さが影響するとされていますが……」
応じながら、仙汰は胸に鈍い痛みを覚える。
もし、生前の行いで冥界の行き先が決まるとすれば、人殺しを生業にしている自分たちは一体どうなるのか。
牧耶は満足そうに頷いて、杠に向き直った。
「アンタは極楽と地獄、どっちに行きたい?」
「そりゃあ、どっちかって言われたら極楽に決まってるじゃん」
「無理よ」
「えっ、なんで? こんなに行いが良いのに」
「行いが良い奴が死罪になるか」
源嗣が冷静に突っこんだが、その口調はやや硬い。
死罪人と処刑人。
南海の極楽浄土と呼ばれる島には上陸したものの、いざ考えてみると、この中で死後に本当の極楽に行けそうな者は一人もいない。
だが、牧耶は一人、穏やかな表情で一同に語り掛けた。
「無理というのは、そういうことじゃないの。良い行い、悪い行いなんて死後の選別には関係ない。なぜなら極楽に行ける者は、生まれながらにして決まっているからよ」
「え?」
仙汰が思わず顔を上げたのと同時に、牧耶は枝の間から覗(のぞ)く天を仰いだ。
「それは天命を持って生まれてきた者。そういう者だけがこの世で天命を果たし、そして極楽へと導かれるの」
「まっきーが、そうだって言うの?」
「ええ。太閤秀吉(たいこうひでよし)しかり、大権現(徳川家康(とくがわいえやす))しかり。天命を持って生まれてきた者は、それを果たすまでは死なないようになっている」
杠の問いに、牧耶は当然のように頷(うなず)いた。
天下人となった人物を自分と同列のように挙げるとは、傲岸不遜(ごうがんふそん)と言わざるを得ない。
しかし、その胸に染み入るような声色と佇(たたず)まいには、不思議な説得力があった。
「ふーん……」
杠は指を唇に当て、にぱっと笑顔を作った。
「じゃあさ、もう一つ情報収集に協力してよ。今度は人面ムカデの観察はどうかなー」
「…………」
「近くに行っても襲ってこないか試しておきたいの。今度はまっきーが逃げられないように木に縄で縛っちゃったりして。別に大丈夫でしょ? まっきーは死なないんだし」
杠は試すように言って、牧耶を見上げた。
冷静な対応だ、と仙汰は感心した。牧耶の勢いに飲まれそうなところだったが、相手の論理をうまく利用して情報収集に繫(つな)げた。例の明らかに危険そうな生き物の生態は、今後野宿することを考えると、ぜひ把握しておきたいところだ。
どう出るかと思ったが、牧耶は意外とあっさり了承した。
「……いいわ。だけど、アンタの言うことを聞くのはこれが最後よ。天命を果たす上で、あまり余計なことをしていると道が濁っていくから」
「じゃ、決まりね!」
杠はうきうきした様子で、牧耶を人面ムカデの近くの木に縛りつけた。
「今さら泣き言は言いっこなしだからね、まっきー」
「……ふん」
距離を取って、しばらく様子を窺っていると、牧耶のそばに人面ムカデの一群が近づいていった。無数の足をうねうねと動かしながら、幾つもの奇々怪々な人面が、生贄(いけにえ)に群がり始める。
牧耶の顔にも、ほんのりと怯(おび)えが浮かんでいるように見える。
誰かがごくりと喉を鳴らした。ムカデたちはすぐにでも牧耶を覆いつくし、その身を喰(く)らい尽くすだろう。
そう思ったが──
「噓……」
小さく声を上げたのは杠だった。巨大なムカデたちは、牧耶に一切の害を与えることなく素通りしていったのだ。まるでそれが初めから決まっていたかのように。
「もういいわよね」
牧耶は静かに言って、首をこきと鳴らした。
その爪によって、縛っていた縄をあっという間に切り裂く。
「別に怖くはないけど、気持ち悪いのはもう勘弁ねぇ。思わず身震いしちゃったわ」
「ほ、本当に……?」
首を回しながらゆっくりと近づいてくる牧耶に、杠が気圧(けお)されるように後退した。仙汰も自然に体がこわばるのを感じる。
牧耶はあのムカデが人肉に興味を示さないということを知っていたのか?
思わず源嗣の顔を見るが、同僚は驚いた様子で小さく首を振るだけだ。仙汰たちと合流する前に、牧耶がそれを確かめるような行動はなかったようだ。
──だとしたら……。
牧耶には確証はなかったはずだ。しかし、確信はあった。
天命を帯びた自分が、それを果たす前に死ぬはずがない、と。
──いや、そんなまさか……。
「アタシは昔キリシタンだった。父も、母も、兄弟も、とても慎み深くて、敬虔な、非の打ちどころのない信徒だったわ」
静寂の森に、牧耶の発する声が厳かに響き渡る。
「でもね、幕府の弾圧でみんな死んだ。みんな、みんな死んだ。その中でアタシだけが生き残った。その時、思ったことがあるの。ああ、神は善行なんか見ていないんだって。そんなもので天国に行く者を選んでいないって。だって、みんなあんなに一途(いちず)に祈りを捧げていたのに、それはもう地獄に落ちたようなひどい死に顔だったのよ」
くくくく、と低い声で含み笑いが漏れた。
流れた断雲が日を遮り、俯(うつむ)いた牧耶の表情は、黒く塗りつぶされている。
「そして、同時にアタシは悟ったの。選ばれし者はアタシだったということを。だって、みんなと同じように起きて、お祈りをして、食べて、眠って。なのにアタシだけが生き残った。死罪を宣告されても、結局こうして今も生きている。それはアタシが果たすべき使命を持って生まれてきたから」
牧耶は大きく両手を広げた。
その体が実際以上に大きく見え、たゆたう声が鼓膜(こまく)を震わせる。
「あなたの天命というのは、討幕ですか?」
やっとのことで、仙汰は唇を動かした。
牧耶の罪は、異教信仰の流布、及び集団洗脳による討幕の扇動だったはずだ。
親兄弟を殺した幕府を打ち滅ぼすことが牧耶の目的だった? 個人的な復讐(ふくしゅう)を大義に言い換えた身勝手な論理にも見えるが、牧耶の姿には奇妙な説得力がある。
しかし、男はがっかりしたように吐息を漏らした。
「これだから哀れな民は……討幕なんて単なる手段に過ぎないの」
「……?」
仙汰が眉をひそめると、牧耶はこう断言した。
「アタシの天命は、全ての人間を極楽に導くこと」
「……!」
「天命を持って生まれてきた者だけが極楽に行くなんて不平等でしょう。だから、アタシが神の代わりに、哀れな子羊(こひつじ)たちに天命を与えてあげることにしたの。無論、アタシと違って生まれ持った者ではないから、道半ばで倒れることはある。それでもただ無為に生きて、地獄に落ちるより、救いがあると言えないかしら」
その声が次第に熱量を帯びていく。
「極楽浄土と称される神仙郷に、こうしてアタシは導かれた。これぞ選ばれし者の証。全ては初めから決まっていたの。仙薬を手にして、それをアタシが口にする。生きながらにしてアタシが神になる。地上の極楽から、天上の極楽へと民草(たみくさ)を導くの!」
まるではかったように雲間から太陽が再び顔を出し、牧耶を祝福するかのごとく、その全身を照らし上げた。
教祖は神々しい光の中で、美しく微笑んだ。
仙汰はどうして牧耶が協力を申し込んできたのか、今更ながら理解する。
牧耶はこの島に、新たな教団と信者を作り上げる気なのだ。不死の教祖に率いられた、極楽浄土を夢見る集団。その最初の信者候補として、杠や仙汰が選ばれた。
牧耶の首にかかった逆さ十字架。それにこれみよがしな女口調は、この世のあるべき規範に対する反逆か。
普通なら荒唐無稽(こうとうむけい)な話だと切って捨てるところだが、迫力のある牧耶の佇まいにその場の誰もが言葉を発せずにいた。
──ん?
仙汰はふと背筋を伸ばして、辺りの様子を窺った。
「地震……?」
揺れている。唸(うな)り声(ごえ)のような音とともに、大地が緩く振動している。
ズゥゥン……ズゥゥン。
音が次第に近づいてきて、振幅が大きくなっていく。
「うおっ!」
同じく辺りに首を巡らせていた源嗣が、突然声を上げてその場に座りこんだ。
「どうしました、源嗣さ──」
「しっ」
源嗣は口に人差し指を当てて、身を低くした。
額に汗が滲(にじ)んでいる。恐る恐る指さす先を見て、仙汰は危うく眼鏡を取り落とすところだった。
「あれは──」
「何、あれ……」
「幻を見ているのか」
杠と源嗣の驚愕(きょうがく)が後に続く。
木々の間を何か大きなものが、ずしん、ずしんと歩いている。巨人と言っても差し支えのない見上げるほどの巨体をしているが、頭の位置には大きな蛙の面(つら)が乗っているのだ。
人の体に、蛙の顔。
作り物のようにぬらぬらとした質感の肌。空虚な黒い目が小刻みに動いている。
それが、ゆっくりと距離を詰めてきた。一同が固唾(かたず)を飲んで成り行きを見守る中、平然と立っているのは牧耶だけだ。
やがて──
「…………」
怪物はこちらに気づかなかったようで、そのまま大地を揺らして歩き去って行った。
まるで化物がここに来ないことがわかっていたかのように牧耶が微笑む一方で、放心した様子で蹲(うずくま)った杠が、掠(かす)れた声で言った。
「もう、いやっ……何よ、なんなのよ、ここはっ……」
「杠さん……」
仙汰は監視対象の、蒼白(そうはく)になった横顔を見つめる。
ここは地上の極楽浄土。
仙汰がまだなんとか思考できるのは、現実感が追いついていないからだ。
ごちゃまぜの植生。奇妙な石仏。人面を宿した虫。蛙の顔をした巨人。これだけの超現実を次々と目(ま)の当たりにすれば、現実主義者に見える杠にはより応(こた)えるのだろう。
「導いてあげましょうか?」
甘い声が鼓膜(こまく)にすっと忍びこんできた。
ゆるゆると、杠の顔が上がる。
「極楽に……?」
「ええ」
声の主(ぬし)である茂籠牧耶が、聖母のような穏やかな笑みで首肯した。
古今東西の宗教に触れ、独自の世界を構築してきた牧耶は、おそらくこの中の誰よりも、非現実を受け入れる素地ができている。
「あなたに為(な)すべき天命を授けましょうか。そうすれば死とともに、あなたの魂は天上の極楽浄土へと導かれるでしょう」
確信に満ちた言葉に、杠の瞳が見開かれる。
源嗣の表情は硬く、仙汰も言葉を発せない。理性では、これは一つの洗脳だと理解できている。牧耶はこうして信者たちを討幕へと駆り立ててきた。
だが、おそらく牧耶に相手を騙(だま)しているという意志はないだろう。自身が神の化身であると心から信じている。だからこそ、これほどまでに言霊に力があるのだ。
牧耶は座りこんだ杠の頭に、ゆっくりと手の平をかざした。
「杠。あなたに天命を授けます。それは死して身を捧げること。あなたの身はこれから島で暮らす教団に、天命を果たすまでの知恵を授けるでしょう。それは大いなる貢献──素晴らしき天命となりましょう」
神仙郷を拠点にするに当たって、花化(はなか)の仕組みなど未知の要素が幾つもある。
つまり、信者たちが牧耶に与えられた天命を果たす前に不慮の事故に遭わないよう、ここで死んで実験台として体を提供しろということだ。無茶な要求に見えても、その先に極楽が待っていると確信すれば、人は容易に傾くことを仙汰は知っている。
かつての自分と同じように、この世の誰もが救いを求めているのだから。
「…………」
杠はまるで糸で操られるように、刀をすらりと引き抜いた。
弱った心は完全に牧耶の言葉の支配下にある。もう目の焦点が合っていない。
──いけない。
仙汰は思わず出そうになった声を、無理やり抑えた。
監視人の役割は、あくまで罪人を見張り、仙薬探しの過程を見届けることだ。罪人同士のやり取りに口を出す必要はないし、ましてや肩入れするなどあってはならない。それにも拘(かか)わらず、声を出しそうになった自分に仙汰は驚きを得た。
──彼女に何かを感じているのだろうか。
刀の切っ先を自身の胸に向けた少女を、仙汰は眼鏡の奥から眺める。
だが、それは意味のない思考だ。これまで通り心を無にしてお役目に臨むのみ。
牧耶は首にかけた逆さ十字架を握って、何かをぶつぶつと口にし始めた。独自の呪文なのだろうか、それは念仏のようでもあり、祈りのようでもある。
牧耶の声量は次第に大きくなっていく。
抑揚の消えた音調が、やけに耳に心地よく響いた。
そして、杠は柄を握った両手を振り上げ──
「うぐ……っ」
柔らかな胸に、刃先を突き立てた。
ゆっくりと倒れこむその姿を、仙汰は唇を嚙みながら見つめた。
「杠。あなたは見事に天命を果たされた。その魂は極楽浄土へと向かうでしょう」
牧耶はそう言って、指で逆さ十字を切った。
日だまりに埋もれた杠の表情は、本当に極楽へと召されたかのように穏やかに見える。
教祖は両手で木洩れ日をすくいとるようにして、天高く掲げた。
「哀れな子羊、選ばれなかった者たち。その魂の安らかならんことを。極楽にて安寧に過ごしたまわんことを」
慈愛に満ちた顔で、牧耶は空を仰いだ。
「アタシは神なる者。選ばれし代行者。ここで未来永劫(みらいえいごう)、悩める者、救いを求める者を天上へと送り続けましょう! それこそが、それこそが我が天めっ──」
トンッ。
乾いた音が鳴って、牧耶の体が、背後の木の表面をずるずると滑り落ちた。
白目を剝いた顔。額には鈍く光るクナイが、深々と突き刺さっている。
「え?」
「お、おい」
仙汰と源嗣が同時に声を上げた。
……死んでいる。
ここに地上の極楽を創り上げようとしていた教祖は、今確かに息絶えていた。
「なーにが天命を果たすまで死ぬことのない選ばれし者よ。やっぱ死ぬじゃん」
声を発したのは、牧耶のそばでこと切れていたはずの少女だ。
「杠さん……!」
「忍法死んだふり──なんちゃって」
傾主の杠は、ぱちりと目を開けた。
胸に刺さったように見せた刀をしまうと、立ち上がって服の汚れを落とす。
「うーん、もうちょっと利用してから殺そうと思ってたけど、こいつ頭やばそうだし、面倒臭くなってきたからつい殺(や)っちゃった」
「だ、騙し討ちか。武士の風上にも置けん奴だ」
源嗣がいきり立つと、杠は飄々(ひょうひょう)とした様子で肩をすくめた。
「だって、私武士じゃないしー。っていうか、正面からやり合うの面倒じゃん。こんな序盤から無駄な体力使ってらんないし」
杠の大きな瞳が、仙汰に向く。
「じゃ、狸くん、記録よろしく」
「えっと……」
「ほら、情報収集。せっかくだから、こいつが私にやろうとしていたみたいに、この体を有効利用しないと。まずは花化の仕組みよね。やっぱあの人面蝶が怪しいと思うんだけどなー。ねえ、聞いてる?」
「あ、はっ、はい」
急な展開に思考が遅れてついてきた。
牧耶にすっかり洗脳されたように見せたのは、最初から油断させて不意打ちをするためだったという訳か。監視役ですら牧耶の迫力にうっかり飲まれそうになっていたが、その裏で、このくの一は冷静に相手を仕留める算段を練っていたのだ。
「杠さん、あなたという人は……」
「ほら、そっちに蝶がいったよー」
「わ、わっ」
杠が人面蝶を牧耶の死体に誘導している。尾部の針で刺された牧耶の体から、ぱっと花が咲いた。
やっぱり、とはしゃいだ声を上げながら、杠は牧耶の身を切り刻み始めた。
花化した結果、身体にどのような影響が出ているのか、内部まで詳しく調べるつもりなのだろう。
「付知殿じゃあるまいし、あの女……」
源嗣は気分がよろしくないようで、額を押さえて苦々しく言った。だが、倫理的な是非はともかく、この島で生き残るために必須の情報であることは間違いない。
彼女は生きるために必要な行動を、躊躇(ちゅうちょ)なく選べるのだ。
すっかり実験体にされた牧耶の体を覗きこむように、中腰になった杠は言った。
「ごめんねー。私、神とか仏とか、どーでもいいんだ」
──神も、仏も、どうでもいい。
仙汰は思わず胸の内で、その言葉を繰り返した。
彼女は、木洩れ日の中で、牧耶ににっこりと笑いかける。
「天命とか目に見えないものに縛られて生きるなんて馬鹿みたい。死後の安寧とかまじで意味わかんないし。大事なのって、今楽しいかどうかじゃん?」

その笑顔は、なぜかひどく美しく輝いて見えて──
──ああ……。
風だ。
目の前を覆う黒い霧を、軽やかに吹き飛ばす鮮烈な風。仙太は今確かにそれを感じた。
握りしめた拳に自然と力が入る。
「おい、どうした、仙汰?」
「源嗣さん、何か?」
「いや、泣いているように見えたぞ」
「……っ」
仙汰は驚いて眼鏡を持ち上げ、目の端をこすった。
言われた通り、かすかに濡れた感触が指先に残る。
処刑人という仕事に、ずっと悩んでいた。
救いを求めて、宗教に傾倒した。だけど、いくら神を頼っても、仏にすがっても、自身の運命を正当化することなどできなかった。
いつしか心を閉ざして、ただ首を斬り落とす日々を送るようになった。
だけど──
立ちすくむ仙汰の脇を通って、杠は源嗣の前に立った。
「筋肉のお兄さんにも協力して欲しいなー。人数は多いほうが助かるし。担当のまっきーが死んじゃったからいいでしょ」
「ふざけるな。誰が貴様のような……」
言いかけて源嗣は、言葉を止めた。
前かがみになった杠の豊満な胸に、その視線が釘付けになっている。
源嗣はごほん、と咳払いをした。
「し、仕方がない。貴様のような卑怯者には、監視役一人では心許(こころもと)ない。本意ではないが、ついていってやらんこともない」
「やったー」
簡単に引っかかった源嗣に背を向け、杠は再び人面蝶を牧耶の死体に誘導する。
「さあ、最後だし思う存分、刺しちゃえ!」
「おい、これ以上、花まみれにしてどうする」
源嗣が後ろから咎(とが)めると、杠は牧耶に視線を落としたまま応えた。
「こいつがどんな人生送ってきたかなんてぜーんぜん興味ないし、極楽なんて信じちゃいないけどさ。少なくともそこに行けるような奴じゃないでしょ。せめて花くらいは添えてやろうかなって」
「…………」
押し黙る源嗣だが、その直後、人面ムカデたちが牧耶の死体に群がり、その身を猛烈な勢いで食べ始めた。
再び額を押さえて溜め息をつく源嗣の前で、杠はぴくりとも表情を変えずに呟く。
「ふーん……人面ムカデは人間に興味ないと思ってたけど、死肉は食べるんだ。ちゃんと記録しておいてね、仙汰」
ああ、彼女はなんて──
冷静で、
残酷で、
不謹慎で、
そして、自由なんだ。
視界の中で、杠の笑顔が滲んでいく。
山田浅ェ門仙汰。首斬り人たる山田家の門弟になって幾余年。
自分はもう子供の頃のように、美しい風景に、眩い輝きを放つ生命に、心を躍らせ、涙することなど二度とないのだろう。そう思っていた。
なのに──
自由な精神が、
躍動する生命の波動が、
今こんなにも眩しく心を動かしている。
「はいっ」
仙汰は勢いよく答え、歩き出した杠の後に続いた。
高鳴る胸。
火照(ほて)る頰。
再び熱を帯びた目頭を隠すように、手にした帳面は、高く持ち上げられていた。