地獄楽
『うたかたの夢』
目次
序幕
公開は終了しました
  • 第一話
    夫婦(めおと)の鉄則
    公開は終了しました
  • 第二話
    連星、輝く
    公開は終了しました
  • 第三話
    心動かすもの
  • 第四話
    桜咲く庭
終幕
※序幕、第⼀話、第⼆話の無料公開は4⽉30⽇(⼟)23時59分まで。第三話、第四話、終幕の無料公開は5⽉31⽇(⽕)23時59分まで。
第三話
心動かすもの
  • 「う、うーん……」
     神仙郷(しんせんきょう)、上陸初日の夜。森にある大木の空洞(うろ)の中で、ふくよかな身でごろんと寝返りをうった山田浅ェ門仙汰(やまだあさえもんせんた)は、うっすらと目を開けた。
     裸眼ゆえ視界はぼんやりしているが、まだ外が暗がりに満ちていることはわかる。
     ──そろそろ、見張りの交代かな……?
     上陸からしばらくして、同じ山田浅ェ門の佐切(さぎり)や源嗣(げんじ)と行動をともにすることになり、夜は交代して休みを取ることにしたのだ。
     仙汰は腕を伸ばして地面をまさぐり、自身の眼鏡(めがね)を探し当てた。
     横になったまま眼鏡をかけると、しなやかな曲線を描いた、くの一の背中が、闇の中にうっすらと浮かび上がる。
     仙汰の監視対象である、傾主(けいしゅ)の杠(ゆずりは)。
     すぅすぅと気持ちよさそうに寝息を立ててはいるが、本当に寝ているのかはわからない。
     なぜなら、彼女はよく噓(うそ)をつくからだ。
     短い付き合いの中でも、それくらいのことは仙汰にもわかった。
     そして、同時に、彼女がとても正直であることも。
     他人は欺く。だけれども、自分にはどこまでも正直に。
     ──それは……僕にはないものだ。
     仙汰は、杠の背中から、しばらく目を離すことができなかった。
     今胸に抱いている想いに、仙汰はいまだ明確な言葉を与えられずにいる。しかし、島への上陸からたった半日で、任務に臨む自身の姿勢が変化し始めていることに、小さな驚きを覚えていた。
     最初のきっかけになったのは、神仙郷上陸から間もなく起こった一つの事件である。
  •  ──好きなもの。
     故郷の家族。
     金平糖(こんぺいとう)。
     北尾重政(きたおしげまさ)の画本。
     幼い頃から、画家になりたかった。
     驟雨(しゅうう)に濡れた紫陽花(あじさい)。木の芽を啄(ついば)むつがいのスズメ。春の野山を躍動する子兎(こうさぎ)。
     ただ、美しいものを、美しいままに描き出したかった。
     しかし、我が家の男子は山田家の門下に入るのがしきたりであり、逆らうことは許されなかった。手に持つ絵筆は、研ぎ澄まされた日本刀に代わり、絵の具の紅(べに)は、罪人の赤い血潮(ちしお)へと変化した。
     美しさを紡ぎ出したかった指先は、今やべったりと血に濡れている。
     本当は山田家も、御様御用(おためしごよう)も嫌いだ。人を殺すのは大嫌いなのだ。
     だから、罪人とともに仙薬(せんやく)を探すこのお役目だって、どうでもいいと思っている。
    「狸(たぬき)くん、遅いよー」
    「あ、すいません」
     仙汰は顔を上げて、歩く速度を速めた。
     地上の極楽と称される神仙郷へ上陸し、軽く島内を回ろうとした矢先のこと。
     少し前で立ち止まって、こちらを振り返るのが、仙汰の監視対象だ。
     引っ張り上げるように後ろにまとめられた髪。引き締まった肢体。大胆に肌を露出した忍(しのび)装束をまとった女。
     傾主の杠。
     鷺羽城(さぎわじょう)侵入事件の下手人であり、城内侵入及び城主家臣への傷害のかどで死罪を受けている。
     今回の役目に臨むに当たって、仙太は彼女の担当を選んだ。理由は自分でもよくわからない。どうでもいいお役目だと思っていたから、万事に適当そうな相手を選んだのか。それとも彼女に何かを感じたのか──
     仙太はそこで首を振った。
     罪人に思いを馳(は)せる必要はない。彼らの人となりを知ったところで意味などないし、興味を持つだけ無駄だ。それはこれまで処刑してきた罪人についても同様である。
     ただ心を閉ざし、淡々とその首筋に向けて剣を振るうだけ。
     処刑執行人としての生活を送る中で、自分はいつしかそうなってしまった。付知(ふち)など気の合う同僚とお茶を飲む時間は嫌いではないが、もう子供の頃のように、美しい風景に、眩(まばゆ)い輝きを放つ生命に、心を躍らせ、涙することなど二度とないのだろう。
     杠のもとに辿(たど)り着くと、彼女はじっと仙汰を見つめてきた。
    「あの、なんでしょうか?」
    「いやさ、狸くんって顔が暗いのよね。こっちまで気が滅入(めい)るから、その顔なんとかしてくれない?」
    「えっと、これは生まれつきで」
    「そうかなー。なんだかお面を被(かぶ)っているみたい」
    「……はは」
     仙汰は愛想笑いで応えて、眼鏡の端を指で押し上げた。
     いけない。仕事自体は勤勉にこなしてきたつもりだが、態度に出ていただろうか。
     そういえばこの島まで小舟で移動している最中も「本当はこの役目も、山田家(おいえ)のこともどーでもいいって口でしょ」──そう杠に言われた。単なる当てずっぽうなのか、仙汰を陽動するためか、それとも本当にずばりと本質を見抜いたのか。
     ──一応、注意しないと。
     可憐(かれん)な見た目をしているが、彼女は異能とも言うべき力を持つ、幕府が認定した朱印の罪人である。下手な隙を見せないようにしないといけない。仙汰は改めて気を引き締めるのだった。
    「それで、杠さん。どのように仙薬を探しますか?」
    「別に探すつもりないけど」
    「え?」
     突然の宣言に、仙汰はしどろもどろになる。
    「何を言っているんですか。仙薬を手に入れなければ、無罪放免は得られないんですよ」
    「仙薬がいらないとは言ってないわよ。私が探す必要はないって言ってんの。そんなものより先にみんなの舟を探そうよ」
    「ますますわからないんですが……」
    「頭が固いなぁ、狸くんは」
     困惑していると、杠はぴょんっと小さく跳ねて仙汰のすぐ目の前に降り立った。
     端正な小顔が、息のかかるほどの距離に近づく。
    「仙薬探しは他の人に頑張ってもらう。私は最後にそれを頂いて持って帰る。そういう素敵な話をしてるんじゃない」
    「えっと……つまり、手柄を横取りする、という訳ですか?」
    「人聞きが悪いわね。やっぱ仙薬探しって大変そうじゃん。悪名高い罪人たちが血眼(ちまなこ)になって争う訳だしさー。激しい闘争が巻き起こり、多くの者が倒れる。残った一人(ひとり)もきっと満身創痍(まんしんそうい)になる。だから、弱り切ったそいつを最後にさくっと倒して、代わりに本土に持って帰ってあげる。それで万事解決! みんな幸せ!」
    「絶対みんな幸せではないと思いますが……結局、手柄を横取りするんじゃ……」
    「そうとも言うわね」
     杠は、にぱっと笑った。仙汰は一歩下がって咳払いをする。
    「ああ。それで、まずみんなの舟を探す訳ですか」
    「へぇ。鈍そうに見えるけど、意外と勘はいいのね。狸くん」
    「それはどうも……」
     つまり、こういう訳だ。
     今回仙薬探しに臨む罪人たちは、沖に停めた幕府の船から小舟を使って、それぞれ違う岸からこの島へと入った。仙薬を手に入れた後は、その小舟で沖合いの幕府の船まで戻る流れになっている。
     杠の提案は、罪人たちが仙薬探しに勤しんでいる間に、海岸をぐるりと巡り、岸辺に停めているであろう彼らの舟を破壊してまわるということだ。そうして、杠と仙汰が乗ってきた小舟だけを残す。
     最終的に仙薬を手に入れた罪人が、本土に帰るためには必ず舟が必要になる。自分の舟が破壊されているのを知った後は、弱った体に鞭(むち)打って、なんとか残った舟を探すために海岸を巡るはず。
    「それを見越し、この付近に隠れておいて、現れた満身創痍の罪人から仙薬を奪い取ると」
    「ご名答! さすが眼鏡」
    「眼鏡は関係ないですが、却下です」
    「えー、なんで? それが一番楽じゃん」
     露骨に肩を落とす杠に、仙汰はこほんと咳払いをして言った。
    「幕府は非時香実(トキジクノカグノミ)を探させるために、あなた方を送りこんだのであって、横取りをさせるためではありません。それに仙薬を手に入れた罪人が、残った舟を探し回るとは限らないですよね。この島には見ての通り、木が豊富にあります。自ら筏(いかだ)を作ってさっさと島を出られたら? こちらは単なる待ちぼうけで終わってしまう危険があると思いますが」
    「それでも下手に島の奥に足を踏み入れるより、生き残る確率は高いと思うけど。ちょっと森に入ってみて思ったけどさー。明らかにやばそうじゃん、この島」
    「…………」
     仙汰は無言で辺りを見回した。現在地は海岸線から少し内陸に入ったところで、周囲には鬱蒼(うっそう)とした森が広がっている。
     確かに違和感はある。多種多様な植物が生い茂っているが、仙汰の見る限り、種類や生息地に一貫性がなく、ばらばらに混在しているように見える。子供の頃にたくさんの風景や生き物を描いてきたからわかるが、これは自然な美しさではない。
     あるべき法則を無視した、言うなればひどく人工的で作為的な自然──
    「それにさっき気持ち悪い虫も見かけたんだよね」
     杠はげんなりした様子で言った。
    「虫?」
    「あ、ほら。あの繁みの奥で飛んでる奴(やつ)」
     それはひらひらと舞う一匹の蝶(ちょう)だった。やや大ぶりで、うっすらと鱗粉(りんぷん)を散らしながら葉と葉の間を飛んでいる。
     仙汰は目を細めて対象に焦点を合わせ、反射的に身を一歩引いた。
    「……っ」
     顔がある。どこか邪悪な面持ちを浮かべた人面の蝶。
     そして、尾部にはまるで蜂のような鋭利な針がついていた。
     こんなものは今まで見たことがない。
    「な、なんですか。あの生き物は……?」
    「ね、どう見てもやばいっしょ。他にも人面ムカデみたいなのもいたしさ。だから、私の提案通り、引き返して海岸でのんびり待っていたほうがいいって」
    「それでも却下です。上意は上意ですから」
     額(ひたい)の汗を拭って言うと、杠は大きく溜め息をついて肩をすくめた。
    「まじめだなー、狸くんは」
    「それだけが取り柄ですから」
    「……」
     杠は一瞬なんとも言えない表情をしたが、やがて諦めたように嘆息した。
    「あー、もう、わかったよ。だったら協力くらいはしてもらうわよ」
    「協力?」
    「今、私たちに圧倒的に足りないのはなあに?」
     試すような視線に、仙汰は一瞬思考を巡らせた。
    「戦力……いや、情報ですね」
    「さすが眼鏡。島を攻略すると決めたなら、最も優先すべきは情報収集よ。地形はどうなっているのか。どこにどんな生き物がいるのか。どんな植物があるのか。渡された仙薬の見た目だって怪しいもんだし、帰ってきた与力(よりき)が花になった謎もわかってないしさ。得た情報をまとめていって欲しいのよ。できるでしょ、眼鏡だし」
    「眼鏡は関係ありませんが、そういうことなら異論はありません。目的達成の助けになるなら、協力させてもらいます」
     仕事は仕事として、きっちりとこなす。余計なことは考えない。そうやって生きてきた。
     ──それにしても……。
     仙汰は再び歩き始めた杠を横目で眺めた。漁夫の利を得るようなずる賢い提案をしたと思ったら、情報収集という堅実な道を示したりもする。
     いまいち彼女という人間が摑(つか)み切れない。
     ──いや……それでいいのだ。
     仙汰は首を振った。罪人は罪人。どんな人間だろうが、どうでもいい。興味を持つ必要などない。今までそうやって過ごしてきたし、これからもそうだ。
     地形や周辺の植物を帳面に記録していると、ふいに横から杠が覗(のぞ)きこんできた。
    「うわ、うまっ。なんでこんなうまいの」
    「恐縮です」
     絵描きを目指した過去は当然明かさず答えると、杠がぴんと人差し指を立てた。
    「あっ、いいこと思いついた。私を描いてよ」
    「……どうして僕がそんなことを?」
    「だって、輝いてる自分を残しておきたいしさ。ねっ、お願い」
    「それは目的達成に役立つのですか」
    「立つ。めっちゃ立つ。可愛(かわい)く描かれたら、私のやる気が出る」
     杠は体を斜めに向け、芸者よろしく傘を持つような姿勢を取った。
    「…………」
     仙汰は深い溜め息をついて筆を持ち上げた。
     揺れる木洩(こも)れ日(び)。美しく微笑(ほほえ)む女。
     静謐(せいひつ)な森で、絵筆が紙をなぞる音だけが響く。
     しかし、しばらく筆先を彷徨(さまよ)わせた後、仙太は帳面をぱたんと閉じた。
    「……やはり、やめましょう。こんなことをしている暇はありません」
    「あ、もうっ。つまんないなー」
     杠の文句を耳にしながら、仙汰は薄く帳面を開いて、途中まで描かれた絵を眺めた。顔の輪郭や体の線は描いているが、表情がのっぺらぼうのように真っ白だ。
     絵とは対象の観察であり、外面のみに囚われない内面への興味である。特に人物画は描き手が相手をどう見ているのかが如実に現れる。興味を持ってはいけない。心を殺し、罪人を殺し続けた自分に、その顔を描き入れることはできない。
     しばらく森を歩いたところで、ふいに杠が立ち止まった。
    「うげ、また変なのがある」
     杠が指さした先には、奇妙な石の像が無造作に転がっていた。一見すると如来(にょらい)像のようだが、首には骸骨をぶら下げ、広げた手足には巨大な蛇がうねうねと絡みついている。
     仙汰は思わず眼鏡の端を持ち上げた。
    「確かに、変ですね……!」
    「でしょー。趣味が悪いっていうか」
    「いえ、変というのは宗教的な意味です」
    「……?」
     小さく首をひねる杠に、仙汰は続けた。
    「この像自体は、如来像に近いものだと思います。頭に螺髪(らほつ)が表現されて、衲衣(のうえ)姿という点からもそう考えるのが自然でしょう。ですが、肉髻(にっけい)や白毫(びゃくごう)がなかったり、左肩が出ているという点には大きな違和感を覚えます。衲衣の向きが反対なんです。こんなことは普通あり得ない」
    「えーっと?」
    「いや、それ以上におかしいのが付属物です。髑髏(どくろ)の首飾り、両手に巻きついている蛇。これらが如来像と合わさっていることには不自然さしか覚えません」
    「あの、狸くん……?」
    「これらの意匠はどちらかというと、庚申(こうしん)信仰の本尊たる青面金剛(しょうめんこんごう)を想起させますよね。無論、庚申信仰は、我が国では仏教的要素の強い複合的な民間信仰と捉えることができますが、本来は大陸の道教(どうきょう)思想に基づいた三尸説(さんしせつ)が基礎になっていて──」
    「ねえってば。さっきから何言ってんのか全然わかんないんですけどー」
    「あ、わっ、すいません」
     我に返った仙汰は、慌てて手を振りながら、
    「つまり、この石仏には、仏教や道教の要素が不自然に混ざり合っているというか。宗教的な整合性に著しく欠けているんです」
    「ふぅん……」
     杠はじっと仙汰を見つめてきた。
    「宗教に詳しいんだね、狸くんは」
    「ああ、いえ……」
     仙汰は杠から顔をそらすようにして答えた。
     人殺しを生業(なりわい)とする生き方を、なんとか正当化しようと足搔(あが)いた時期もあった。
     そうして辿り着いたのが宗教だったのだ。魂の救いが、すがりつく何かが、自分には必要だったから。勿論(もちろん)、杠にそんなことは言えないが。
     そういえば──と仙汰は思う。
     宗教と言えば、今回の罪人の中にも、宗教に関係する者がいた。
    「ねえ、そこの二人(ふたり)、ちょっと待ってくれない」
     ちょうどそう考えていた時、後ろから甘ったるい声がした。
    「そこのくの一と、眼鏡。アンタたちに言ってんの」
     振り返ると、下生えを踏み分けてこちらに近づいてくる人物がいる。
     口調の割に、上背のある男で、編みこんだ髪を両肩に垂らし、黒い法衣(ほうえ)のようなものを羽織っていた。
     首にかけた逆さ十字架が、木洩れ日にちかちかと瞬いている。
    「茂籠(もろ)、牧耶(まきや)」
     仙汰はその名を呟(つぶや)いた。
     上陸して早くも別の罪人と遭遇することになってしまった。
     男の後ろからは、白装束を身にまとった浅黒い肌の大柄な男がついてきている。
     牧耶の監視役である山田浅ェ門源嗣だ。
    「あー、茂籠牧耶って、女みたいに話す変な奴ね。あいつって何やったの?」
     隣に立つ杠がひそひそと尋ねてくる。
    「ころび伴天連(ばてれん)、茂籠牧耶。異教信仰の流布(るふ)、及び集団洗脳による討幕を企てたかどで死罪を受けた罪人です」
    「ふーん」
     宗教に関係する罪人というのが、今、目の前にいる茂籠牧耶だ。
     キリスト教、仏教、神道(しんとう)、修験道(しゅげんどう)など様々な宗教を継ぎはぎしたような独自の宗教体系を作り上げ、教祖として君臨していた男。伴天連というのはキリスト教の宣教師のことで、元々は牧耶も敬虔(けいけん)なキリシタンだったらしいと、以前に担当の源嗣が言っていたことがあった。
    「…………」
     すぐそばまでやってきた牧耶を、杠は黙って見上げている。場の緊張が徐々に増し、空気がひりつく。いよいよ、朱印の罪人同士の削り合いが始まる。
     仙汰が身構えると、
    「ねえ、アタシと協力しない?」
     牧耶から出た言葉は予想外のものだった。
     ころび伴天連は、監視役の源嗣を振り返る。
    「結託は別に問題ないでしょ?」
    「俺は単なる監視役だ。罪人同士揉(も)めるも組むも好きにしろ」
     腕を組んで答える源嗣だが、その目は杠にちらちらと向いている。
     源嗣は昔から女性に弱いのだ。
     牧耶は怪しげな微笑を浮かべて、語りかけてくる。
    「アンタの名前は?」
    「杠だよ」
    「ねえ、どう、杠? ここがどんな島かわからないし、情報を集めるためにも手を組まない? 勿論、やり合いたいなら応じるけど、お互い無駄な体力の消耗は避けたいでしょう?」
     情報収集を始めようとした矢先のありがたい申し出ではあるが、果たして信用できるのだろうか。なんせ牧耶は、信者の集団洗脳で刑を宣告された男だ。
     仙汰は杠の反応を窺(うかが)ったが、彼女は拍子抜けするほどあっさりと承諾した。
    「もちろん! よろしくね、まっきー」
     微笑む牧耶と、弾ける笑顔の杠。
     こうして、上陸から程なくして、罪人同士の危うい共闘関係が形成されたのだった。
  •  しかし、一刻(いっとき)後。
     杠と茂籠牧耶の間には、早くも剣吞(けんのん)な空気が流れていた。
    「アンタ、可愛い顔して結構な無茶をやってくれるわねぇ」
    「ごめんってば、まっきー。ね、謝ってるじゃん」
     額に青筋を浮かべた牧耶に、杠が両手を合わせて頭を下げている。
    「でも、まっきーにこっちの情報は渡したでしょ」
    「植物や石像の説明なんて聞いたところで、なんの足しにもならないわ。そんなものでチャラにしようというつもり?」
    「協力しようって言ったじゃん。まずは情報収集が大事って意見も一致したし」
    「やり方が良くなかったわねぇ」
     牧耶の口調と視線に、冷たい殺気が混じる。
     しかし、それもさもありなん、と脇で聞いている仙汰は思った。
     杠は牧耶との共闘に当たって、こちらがこれまでに集めた情報を渡す代わりに、牧耶側にも新たな情報の提供を求めた。
     それは森で見かけた奇怪な生き物──人の顔を持つ蝶の観察。
     結果として牧耶は人面蝶の鱗粉を間近で浴びることになった。量が少なかったためか、大した障害はなかったが、牧耶としてはいい実験台にされたようなものだ。
     杠は取り繕うように、まくし立てる。
    「でも、ほら。まっきーのおかげで貴重な情報も得られたし。あのキモい人面蝶の鱗粉には、どうやら毒の成分が含まれているらしいことがわかったじゃん。本当、超助かるー」
    「他に言い残したいことはある?」
     牧耶はゆっくりと右手を上げた。
     あの爪(つめ)だ。
     五本の指に備わった長く鋭利な爪で、選別の際の罪人や、ここに来る途中の幕府の船で役人を切り刻むのを仙汰は見た。
     二人の距離が徐々に縮まり、杠の背中に緊張感が漂う。
     今度こそ決闘が始まる──争いが飛び火した時のために、仙汰の手が刀の柄(つか)に伸びた。
     だが──
    「……なんてね」
     ふいに微笑んで、牧耶は手を下ろした。
    「ふふ、驚いた? 別に怒っていないわ」
     目をぱちくりと瞬かせる杠に、牧耶は言った。
    「だって、どうせアタシが死なないのはわかっていたし」
    「……どういうこと?」
     杠が怪訝(けげん)な表情を浮かべる。
    「なぜなら、まだアタシは天命を果たしていないからよ」
    「…………」
     ずい、と牧耶はその顔を杠に寄せた。
    「この世には二種類の人間がいる。天命を持って生まれてきた人間と、そうでない人間。アタシは前者、アンタは後者」
    「よくわかんないんだけど」
    「アンタ、人が死んだらどうなるか知ってる?」
    「さあ? 死ねば土に還(かえ)るだけじゃない」
    「ノン。アタシは魂のことを言ってるの」
    「そんなの知る訳ないじゃん。死んだことないしー」
     とぼけつつも、牧耶の醸し出す奇妙な迫力に、杠の足が一歩後ろに下がった。
     牧耶の瞳が、今度は監視役の仙汰に向く。
    「眼鏡。この中じゃ、アンタが一番わかっていそうね。どうかしら?」
    「……その、様々な解釈がありますが、死後には死後の世界があるというのが、多くの宗教で共通している考え方かと。内容は多岐に亘(わた)りますが、典型的な世界観としては、極楽または天国という苦しみから解放された世界と、地獄または奈落とも言う苦しみに満ちた世界があるとされることが多いようです」
     眼鏡の位置を直しながら仙汰が答えると、牧耶はうっすらと笑みを浮かべた。
    「そうねぇ。じゃあ極楽と地獄、行き先はどうやって決まるの?」
    「ええと……一般的には、生前の行いや、信心の強さが影響するとされていますが……」
     応じながら、仙汰は胸に鈍い痛みを覚える。
     もし、生前の行いで冥界の行き先が決まるとすれば、人殺しを生業にしている自分たちは一体どうなるのか。
     牧耶は満足そうに頷いて、杠に向き直った。
    「アンタは極楽と地獄、どっちに行きたい?」
    「そりゃあ、どっちかって言われたら極楽に決まってるじゃん」
    「無理よ」
    「えっ、なんで? こんなに行いが良いのに」
    「行いが良い奴が死罪になるか」
     源嗣が冷静に突っこんだが、その口調はやや硬い。
     死罪人と処刑人。
     南海の極楽浄土と呼ばれる島には上陸したものの、いざ考えてみると、この中で死後に本当の極楽に行けそうな者は一人もいない。
     だが、牧耶は一人、穏やかな表情で一同に語り掛けた。
    「無理というのは、そういうことじゃないの。良い行い、悪い行いなんて死後の選別には関係ない。なぜなら極楽に行ける者は、生まれながらにして決まっているからよ」
    「え?」
     仙汰が思わず顔を上げたのと同時に、牧耶は枝の間から覗(のぞ)く天を仰いだ。
    「それは天命を持って生まれてきた者。そういう者だけがこの世で天命を果たし、そして極楽へと導かれるの」
    「まっきーが、そうだって言うの?」
    「ええ。太閤秀吉(たいこうひでよし)しかり、大権現(徳川家康(とくがわいえやす))しかり。天命を持って生まれてきた者は、それを果たすまでは死なないようになっている」
     杠の問いに、牧耶は当然のように頷(うなず)いた。
     天下人となった人物を自分と同列のように挙げるとは、傲岸不遜(ごうがんふそん)と言わざるを得ない。
     しかし、その胸に染み入るような声色と佇(たたず)まいには、不思議な説得力があった。
    「ふーん……」
     杠は指を唇に当て、にぱっと笑顔を作った。
    「じゃあさ、もう一つ情報収集に協力してよ。今度は人面ムカデの観察はどうかなー」
    「…………」
    「近くに行っても襲ってこないか試しておきたいの。今度はまっきーが逃げられないように木に縄で縛っちゃったりして。別に大丈夫でしょ? まっきーは死なないんだし」
     杠は試すように言って、牧耶を見上げた。
     冷静な対応だ、と仙汰は感心した。牧耶の勢いに飲まれそうなところだったが、相手の論理をうまく利用して情報収集に繫(つな)げた。例の明らかに危険そうな生き物の生態は、今後野宿することを考えると、ぜひ把握しておきたいところだ。
     どう出るかと思ったが、牧耶は意外とあっさり了承した。
    「……いいわ。だけど、アンタの言うことを聞くのはこれが最後よ。天命を果たす上で、あまり余計なことをしていると道が濁っていくから」
    「じゃ、決まりね!」
     杠はうきうきした様子で、牧耶を人面ムカデの近くの木に縛りつけた。
    「今さら泣き言は言いっこなしだからね、まっきー」
    「……ふん」
     距離を取って、しばらく様子を窺っていると、牧耶のそばに人面ムカデの一群が近づいていった。無数の足をうねうねと動かしながら、幾つもの奇々怪々な人面が、生贄(いけにえ)に群がり始める。
     牧耶の顔にも、ほんのりと怯(おび)えが浮かんでいるように見える。
     誰かがごくりと喉を鳴らした。ムカデたちはすぐにでも牧耶を覆いつくし、その身を喰(く)らい尽くすだろう。
     そう思ったが──
    「噓……」
     小さく声を上げたのは杠だった。巨大なムカデたちは、牧耶に一切の害を与えることなく素通りしていったのだ。まるでそれが初めから決まっていたかのように。
    「もういいわよね」
     牧耶は静かに言って、首をこきと鳴らした。
     その爪によって、縛っていた縄をあっという間に切り裂く。
    「別に怖くはないけど、気持ち悪いのはもう勘弁ねぇ。思わず身震いしちゃったわ」
    「ほ、本当に……?」
     首を回しながらゆっくりと近づいてくる牧耶に、杠が気圧(けお)されるように後退した。仙汰も自然に体がこわばるのを感じる。
     牧耶はあのムカデが人肉に興味を示さないということを知っていたのか?
     思わず源嗣の顔を見るが、同僚は驚いた様子で小さく首を振るだけだ。仙汰たちと合流する前に、牧耶がそれを確かめるような行動はなかったようだ。
     ──だとしたら……。
     牧耶には確証はなかったはずだ。しかし、確信はあった。
     天命を帯びた自分が、それを果たす前に死ぬはずがない、と。
     ──いや、そんなまさか……。
    「アタシは昔キリシタンだった。父も、母も、兄弟も、とても慎み深くて、敬虔な、非の打ちどころのない信徒だったわ」
     静寂の森に、牧耶の発する声が厳かに響き渡る。
    「でもね、幕府の弾圧でみんな死んだ。みんな、みんな死んだ。その中でアタシだけが生き残った。その時、思ったことがあるの。ああ、神は善行なんか見ていないんだって。そんなもので天国に行く者を選んでいないって。だって、みんなあんなに一途(いちず)に祈りを捧げていたのに、それはもう地獄に落ちたようなひどい死に顔だったのよ」
     くくくく、と低い声で含み笑いが漏れた。
     流れた断雲が日を遮り、俯(うつむ)いた牧耶の表情は、黒く塗りつぶされている。
    「そして、同時にアタシは悟ったの。選ばれし者はアタシだったということを。だって、みんなと同じように起きて、お祈りをして、食べて、眠って。なのにアタシだけが生き残った。死罪を宣告されても、結局こうして今も生きている。それはアタシが果たすべき使命を持って生まれてきたから」
     牧耶は大きく両手を広げた。
     その体が実際以上に大きく見え、たゆたう声が鼓膜(こまく)を震わせる。
    「あなたの天命というのは、討幕ですか?」
     やっとのことで、仙汰は唇を動かした。
     牧耶の罪は、異教信仰の流布、及び集団洗脳による討幕の扇動だったはずだ。
     親兄弟を殺した幕府を打ち滅ぼすことが牧耶の目的だった? 個人的な復讐(ふくしゅう)を大義に言い換えた身勝手な論理にも見えるが、牧耶の姿には奇妙な説得力がある。
     しかし、男はがっかりしたように吐息を漏らした。
    「これだから哀れな民は……討幕なんて単なる手段に過ぎないの」
    「……?」
     仙汰が眉をひそめると、牧耶はこう断言した。
    「アタシの天命は、全ての人間を極楽に導くこと」
    「……!」
    「天命を持って生まれてきた者だけが極楽に行くなんて不平等でしょう。だから、アタシが神の代わりに、哀れな子羊(こひつじ)たちに天命を与えてあげることにしたの。無論、アタシと違って生まれ持った者ではないから、道半ばで倒れることはある。それでもただ無為に生きて、地獄に落ちるより、救いがあると言えないかしら」
     その声が次第に熱量を帯びていく。
    「極楽浄土と称される神仙郷に、こうしてアタシは導かれた。これぞ選ばれし者の証。全ては初めから決まっていたの。仙薬を手にして、それをアタシが口にする。生きながらにしてアタシが神になる。地上の極楽から、天上の極楽へと民草(たみくさ)を導くの!」
     まるではかったように雲間から太陽が再び顔を出し、牧耶を祝福するかのごとく、その全身を照らし上げた。
     教祖は神々しい光の中で、美しく微笑んだ。
     仙汰はどうして牧耶が協力を申し込んできたのか、今更ながら理解する。
     牧耶はこの島に、新たな教団と信者を作り上げる気なのだ。不死の教祖に率いられた、極楽浄土を夢見る集団。その最初の信者候補として、杠や仙汰が選ばれた。
     牧耶の首にかかった逆さ十字架。それにこれみよがしな女口調は、この世のあるべき規範に対する反逆か。
     普通なら荒唐無稽(こうとうむけい)な話だと切って捨てるところだが、迫力のある牧耶の佇まいにその場の誰もが言葉を発せずにいた。
     ──ん?
     仙汰はふと背筋を伸ばして、辺りの様子を窺った。
    「地震……?」
     揺れている。唸(うな)り声(ごえ)のような音とともに、大地が緩く振動している。
     ズゥゥン……ズゥゥン。
     音が次第に近づいてきて、振幅が大きくなっていく。
    「うおっ!」
     同じく辺りに首を巡らせていた源嗣が、突然声を上げてその場に座りこんだ。
    「どうしました、源嗣さ──」
    「しっ」
     源嗣は口に人差し指を当てて、身を低くした。
     額に汗が滲(にじ)んでいる。恐る恐る指さす先を見て、仙汰は危うく眼鏡を取り落とすところだった。
    「あれは──」
    「何、あれ……」
    「幻を見ているのか」
     杠と源嗣の驚愕(きょうがく)が後に続く。
     木々の間を何か大きなものが、ずしん、ずしんと歩いている。巨人と言っても差し支えのない見上げるほどの巨体をしているが、頭の位置には大きな蛙の面(つら)が乗っているのだ。
     人の体に、蛙の顔。
     作り物のようにぬらぬらとした質感の肌。空虚な黒い目が小刻みに動いている。
     それが、ゆっくりと距離を詰めてきた。一同が固唾(かたず)を飲んで成り行きを見守る中、平然と立っているのは牧耶だけだ。
     やがて──
    「…………」
     怪物はこちらに気づかなかったようで、そのまま大地を揺らして歩き去って行った。
     まるで化物がここに来ないことがわかっていたかのように牧耶が微笑む一方で、放心した様子で蹲(うずくま)った杠が、掠(かす)れた声で言った。
    「もう、いやっ……何よ、なんなのよ、ここはっ……」
    「杠さん……」
     仙汰は監視対象の、蒼白(そうはく)になった横顔を見つめる。
     ここは地上の極楽浄土。
     仙汰がまだなんとか思考できるのは、現実感が追いついていないからだ。
     ごちゃまぜの植生。奇妙な石仏。人面を宿した虫。蛙の顔をした巨人。これだけの超現実を次々と目(ま)の当たりにすれば、現実主義者に見える杠にはより応(こた)えるのだろう。
    「導いてあげましょうか?」
     甘い声が鼓膜(こまく)にすっと忍びこんできた。
     ゆるゆると、杠の顔が上がる。
    「極楽に……?」
    「ええ」
     声の主(ぬし)である茂籠牧耶が、聖母のような穏やかな笑みで首肯した。
     古今東西の宗教に触れ、独自の世界を構築してきた牧耶は、おそらくこの中の誰よりも、非現実を受け入れる素地ができている。
    「あなたに為(な)すべき天命を授けましょうか。そうすれば死とともに、あなたの魂は天上の極楽浄土へと導かれるでしょう」
     確信に満ちた言葉に、杠の瞳が見開かれる。
     源嗣の表情は硬く、仙汰も言葉を発せない。理性では、これは一つの洗脳だと理解できている。牧耶はこうして信者たちを討幕へと駆り立ててきた。
     だが、おそらく牧耶に相手を騙(だま)しているという意志はないだろう。自身が神の化身であると心から信じている。だからこそ、これほどまでに言霊に力があるのだ。
     牧耶は座りこんだ杠の頭に、ゆっくりと手の平をかざした。
    「杠。あなたに天命を授けます。それは死して身を捧げること。あなたの身はこれから島で暮らす教団に、天命を果たすまでの知恵を授けるでしょう。それは大いなる貢献──素晴らしき天命となりましょう」
     神仙郷を拠点にするに当たって、花化(はなか)の仕組みなど未知の要素が幾つもある。
     つまり、信者たちが牧耶に与えられた天命を果たす前に不慮の事故に遭わないよう、ここで死んで実験台として体を提供しろということだ。無茶な要求に見えても、その先に極楽が待っていると確信すれば、人は容易に傾くことを仙汰は知っている。
     かつての自分と同じように、この世の誰もが救いを求めているのだから。
    「…………」
     杠はまるで糸で操られるように、刀をすらりと引き抜いた。
     弱った心は完全に牧耶の言葉の支配下にある。もう目の焦点が合っていない。
     ──いけない。
     仙汰は思わず出そうになった声を、無理やり抑えた。
     監視人の役割は、あくまで罪人を見張り、仙薬探しの過程を見届けることだ。罪人同士のやり取りに口を出す必要はないし、ましてや肩入れするなどあってはならない。それにも拘(かか)わらず、声を出しそうになった自分に仙汰は驚きを得た。
     ──彼女に何かを感じているのだろうか。
     刀の切っ先を自身の胸に向けた少女を、仙汰は眼鏡の奥から眺める。
     だが、それは意味のない思考だ。これまで通り心を無にしてお役目に臨むのみ。
     牧耶は首にかけた逆さ十字架を握って、何かをぶつぶつと口にし始めた。独自の呪文なのだろうか、それは念仏のようでもあり、祈りのようでもある。
     牧耶の声量は次第に大きくなっていく。
     抑揚の消えた音調が、やけに耳に心地よく響いた。
     そして、杠は柄を握った両手を振り上げ──
    「うぐ……っ」
     柔らかな胸に、刃先を突き立てた。
     ゆっくりと倒れこむその姿を、仙汰は唇を嚙みながら見つめた。
    「杠。あなたは見事に天命を果たされた。その魂は極楽浄土へと向かうでしょう」
     牧耶はそう言って、指で逆さ十字を切った。
     日だまりに埋もれた杠の表情は、本当に極楽へと召されたかのように穏やかに見える。
     教祖は両手で木洩れ日をすくいとるようにして、天高く掲げた。
    「哀れな子羊、選ばれなかった者たち。その魂の安らかならんことを。極楽にて安寧に過ごしたまわんことを」
     慈愛に満ちた顔で、牧耶は空を仰いだ。
    「アタシは神なる者。選ばれし代行者。ここで未来永劫(みらいえいごう)、悩める者、救いを求める者を天上へと送り続けましょう! それこそが、それこそが我が天めっ──」
     トンッ。
     乾いた音が鳴って、牧耶の体が、背後の木の表面をずるずると滑り落ちた。
     白目を剝いた顔。額には鈍く光るクナイが、深々と突き刺さっている。
    「え?」
    「お、おい」
     仙汰と源嗣が同時に声を上げた。
     ……死んでいる。
     ここに地上の極楽を創り上げようとしていた教祖は、今確かに息絶えていた。
    「なーにが天命を果たすまで死ぬことのない選ばれし者よ。やっぱ死ぬじゃん」
     声を発したのは、牧耶のそばでこと切れていたはずの少女だ。
    「杠さん……!」
    「忍法死んだふり──なんちゃって」
     傾主の杠は、ぱちりと目を開けた。
     胸に刺さったように見せた刀をしまうと、立ち上がって服の汚れを落とす。
    「うーん、もうちょっと利用してから殺そうと思ってたけど、こいつ頭やばそうだし、面倒臭くなってきたからつい殺(や)っちゃった」
    「だ、騙し討ちか。武士の風上にも置けん奴だ」
     源嗣がいきり立つと、杠は飄々(ひょうひょう)とした様子で肩をすくめた。
    「だって、私武士じゃないしー。っていうか、正面からやり合うの面倒じゃん。こんな序盤から無駄な体力使ってらんないし」
     杠の大きな瞳が、仙汰に向く。
    「じゃ、狸くん、記録よろしく」
    「えっと……」
    「ほら、情報収集。せっかくだから、こいつが私にやろうとしていたみたいに、この体を有効利用しないと。まずは花化の仕組みよね。やっぱあの人面蝶が怪しいと思うんだけどなー。ねえ、聞いてる?」
    「あ、はっ、はい」
     急な展開に思考が遅れてついてきた。
     牧耶にすっかり洗脳されたように見せたのは、最初から油断させて不意打ちをするためだったという訳か。監視役ですら牧耶の迫力にうっかり飲まれそうになっていたが、その裏で、このくの一は冷静に相手を仕留める算段を練っていたのだ。
    「杠さん、あなたという人は……」
    「ほら、そっちに蝶がいったよー」
    「わ、わっ」
     杠が人面蝶を牧耶の死体に誘導している。尾部の針で刺された牧耶の体から、ぱっと花が咲いた。
     やっぱり、とはしゃいだ声を上げながら、杠は牧耶の身を切り刻み始めた。
     花化した結果、身体にどのような影響が出ているのか、内部まで詳しく調べるつもりなのだろう。
    「付知殿じゃあるまいし、あの女……」
     源嗣は気分がよろしくないようで、額を押さえて苦々しく言った。だが、倫理的な是非はともかく、この島で生き残るために必須の情報であることは間違いない。
     彼女は生きるために必要な行動を、躊躇(ちゅうちょ)なく選べるのだ。
     すっかり実験体にされた牧耶の体を覗きこむように、中腰になった杠は言った。
    「ごめんねー。私、神とか仏とか、どーでもいいんだ」
     ──神も、仏も、どうでもいい。
     仙汰は思わず胸の内で、その言葉を繰り返した。
     彼女は、木洩れ日の中で、牧耶ににっこりと笑いかける。
    「天命とか目に見えないものに縛られて生きるなんて馬鹿みたい。死後の安寧とかまじで意味わかんないし。大事なのって、今楽しいかどうかじゃん?」
     その笑顔は、なぜかひどく美しく輝いて見えて──
     ──ああ……。
     風だ。
     目の前を覆う黒い霧を、軽やかに吹き飛ばす鮮烈な風。仙太は今確かにそれを感じた。
     握りしめた拳に自然と力が入る。
    「おい、どうした、仙汰?」
    「源嗣さん、何か?」
    「いや、泣いているように見えたぞ」
    「……っ」
     仙汰は驚いて眼鏡を持ち上げ、目の端をこすった。
     言われた通り、かすかに濡れた感触が指先に残る。
     処刑人という仕事に、ずっと悩んでいた。
     救いを求めて、宗教に傾倒した。だけど、いくら神を頼っても、仏にすがっても、自身の運命を正当化することなどできなかった。
     いつしか心を閉ざして、ただ首を斬り落とす日々を送るようになった。
     だけど──
     立ちすくむ仙汰の脇を通って、杠は源嗣の前に立った。
    「筋肉のお兄さんにも協力して欲しいなー。人数は多いほうが助かるし。担当のまっきーが死んじゃったからいいでしょ」
    「ふざけるな。誰が貴様のような……」
     言いかけて源嗣は、言葉を止めた。
     前かがみになった杠の豊満な胸に、その視線が釘付けになっている。
     源嗣はごほん、と咳払いをした。
    「し、仕方がない。貴様のような卑怯者には、監視役一人では心許(こころもと)ない。本意ではないが、ついていってやらんこともない」
    「やったー」
     簡単に引っかかった源嗣に背を向け、杠は再び人面蝶を牧耶の死体に誘導する。
    「さあ、最後だし思う存分、刺しちゃえ!」
    「おい、これ以上、花まみれにしてどうする」
     源嗣が後ろから咎(とが)めると、杠は牧耶に視線を落としたまま応えた。
    「こいつがどんな人生送ってきたかなんてぜーんぜん興味ないし、極楽なんて信じちゃいないけどさ。少なくともそこに行けるような奴じゃないでしょ。せめて花くらいは添えてやろうかなって」
    「…………」
     押し黙る源嗣だが、その直後、人面ムカデたちが牧耶の死体に群がり、その身を猛烈な勢いで食べ始めた。
     再び額を押さえて溜め息をつく源嗣の前で、杠はぴくりとも表情を変えずに呟く。
    「ふーん……人面ムカデは人間に興味ないと思ってたけど、死肉は食べるんだ。ちゃんと記録しておいてね、仙汰」
     ああ、彼女はなんて──
     冷静で、
     残酷で、
     不謹慎で、
     そして、自由なんだ。
     視界の中で、杠の笑顔が滲んでいく。
     山田浅ェ門仙汰。首斬り人たる山田家の門弟になって幾余年。
     自分はもう子供の頃のように、美しい風景に、眩い輝きを放つ生命に、心を躍らせ、涙することなど二度とないのだろう。そう思っていた。
     なのに──
     自由な精神が、
     躍動する生命の波動が、
     今こんなにも眩しく心を動かしている。
    「はいっ」
     仙汰は勢いよく答え、歩き出した杠の後に続いた。
     高鳴る胸。
     火照(ほて)る頰。
     再び熱を帯びた目頭を隠すように、手にした帳面は、高く持ち上げられていた。
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第三話 心動かすもの
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第四話
桜咲く庭
  •  寄せては返す波の音。
     神仙郷(しんせんきょう)、上陸初日の夜。島の海岸線沿いの砂浜には、二つの人影があった。
     うち一人(ひとり)、はちがねを額(ひたい)に巻き、瞳に熱を灯した青年──山田浅ェ門典坐(やまだあさえもんてんざ)は、膝(ひざ)を抱えたまま暗がりの海を見つめていた。
     この島に上陸してすぐ脱出を試みたのだが、数多(あまた)の難破船と花化(はなか)した期聖(きしょう)に遭遇した。更に巨大な吸盤を持つ化物に襲われ、結局、この島へと戻ってきてしまったのだ。
     行きはよいよい。帰りはこわい。
     岸へと向かう海流は、まるでこの島自体が張り巡らせた巨大な網のようだ。不老不死という甘い餌に釣られて蜘蛛(くも)の巣に飛びこんだ哀れな獲物をふと想像し、典坐は首を振った。
     ──明日こそは絶対に脱出してやる。
     誓いを込めて拳で砂を叩(たた)くと、その手が横からぎゅっと握られた。
    「うわ、わ。急にどうしたんすか、ヌルガイさん」
     典坐は慌てて、寄り添うように隣に眠る小柄な人物に声をかけた。
     ぼさぼさの髪の毛を頂点でまとめ、肌はこんがりと日に灼(や)けている。
     山の民(サンカ)ヌルガイ。一見すると少年のように見えるが、濡れた衣服を脱いだ際に、実は女性であることが判明した。ヌルガイは眉(まゆ)を寄せて小さく吐息を漏らした。
    「う、ん……」
    「なんだ……寝てるんすね」
     急に手を握られて焦ったが、どうやら寝ぼけているようだ。ゆっくりと指をほどこうとしたところ、ヌルガイの口から懇願するような呻(うめ)きがこぼれた。
    「じいちゃん……みんな、ごめん……ごめん……」
     彼女の目尻から一筋の滴が流れ、その頰(ほお)を滑り落ちる。
    「ヌルガイさん……」
     典坐は指をほどくのをやめ、ヌルガイの耳に口を近づけた。
    「大丈夫。みんなここにいるから」
     優しく声をかけると、ヌルガイはやがて穏やかな表情に戻って、再び安らかに寝息を立て始めた。典坐はその寝顔を眺めて、口元を緩める。
    「大したことはできないっすけど、こんなことで君の孤独が少しでも癒されるなら……」
     彼女の熱が、握った柔らかな手の平から伝わってくる。
     典坐が脱出を考えたのは、彼女を救うためだった。
     他の罪人と違ってヌルガイは何も悪事を犯していない。山で迷った侍を親切心から集落に連れて行っただけなのに、ただ幕府に従属しない山の民であったというだけで、仲間を皆殺しにされ、死罪を宣告された。
    「そんなのは絶対間違ってる。先生だってわかってくれますよね」
     彼女の未来を、可能性を、そんなことで潰していいはずがない。
     それがあの人から受けた教えだと、自分は信じている。
     夜に溶けていく潮騒を耳にしながら、典坐はまだ山田家に入門して間もないあの日々のことを思い出していた。
  • 「なあセンセー、なんでオレみてーなの拾ったんだよ」
     うららかな午後。
     春の陽射しを浴びる道場の縁側で、あぐらをかいた典坐はけだるそうに言った。
    「……言葉遣いは?」
     そばに立つ男が、腕を組んだまま応じる。
     山田浅ェ門士遠(やまだあさえもんしおん)。
     町で暴れていた典坐を引き取り、剣を教えた人物。立場上は兄弟子に当たるが、典坐にとっては師匠のような存在でもあり、敬意を込めて先生と呼ばれていた。
     他人に教えを請うなどまっぴらではあるが、士遠が剣の達人であるのは間違いない。何よりその両目には深い傷があり、典坐の前に広がる道場の裏庭の景色も見えていないはずなのに、その剣技は正確そのものだった。
     仕方なく、典坐は口調を変える。
    「……なんで自分を拾ったっすか?」
    「浅ェ門(われら)の仕事は人命を奪うこと。それ以外の時間は人助けに使いたい。まあ確かにお前は乱暴な所もあるが、芯には可能性を感じている」
     士遠は顔を裏庭に向けながら言った。
    「かー、お偉ぇな。人助けとかイミわかんねぇ」
     腹が膨れる訳でもない。金が貰える訳でもない。人助けなんぞ無駄以外の何物でもない。
     しかも、そのお節介の結果、典坐は処刑執行人たる山田家の門弟にさせられてしまった。
    「さあ、いつまで休んでいるつもりだ、典坐。もう稽古は始まっているぞ」
     師匠の言葉に、典坐は溜め息をついて重たい腰を上げる。
    「……へいへい」
    「返事」
    「はいはい」
    「返事」
    「ああ、もう、はいっす!」
     ああ、うるせえ。
     道場内に戻った典坐には、いつものように士遠による厳しいしごきが待っていた。
     筋力向上のための負荷運動。持久力向上のための走りこみ。そして勿論(もちろん)、剣の技術を徹底的に仕込まれる。
    「握りが甘い」
     素振りを繰り返す典坐の脇で、士遠が腕を組んで言った。
     盲目のはずなのに、適当にやるとすぐに見抜いて檄が飛んでくる。
    「一つ一つの型を丁寧に、確実にこなせ。お前の強みは剣速にあるが、それは基本が伴ってこそ活(い)きるものだ。基本を疎(おろそ)かにするな」
    「わっ、わかってらあ」
    「返事」
    「わっかりましたっ!」
     汗を迸(ほとばし)らせながら、典坐は吠えた。
     そうは言うが、もう素振りの回数は軽く千を超えている。これだけ竹刀(しない)を振り続ければ、雑にもなるというものだ。
    「緩んでいるぞ」
    「あい……すっ!」
     ──くそ。なんでオレはこんなこと……。
     貧民街で生まれ育った。親には自分を食わせる余裕も気力もなかった。気づいた時には、悪い仲間たちとつるんで町で好き勝手するようになった。腹が減ったら盗む、奪う。殺し以外はなんでもやった。眠りたい時に寝て、起きたい時に起きた。自由だった。
     典坐はぐっと奥歯を嚙(か)んだ。
    「でも、オレらの仕事なんて所詮(しょせん)首斬りだろ。なんでここまで真面目(まじめ)くさって鍛錬する必要があんだよ」
    「だからこそだ」
     士遠の言葉が鋭さを帯びる。
    「浅ェ門の仕事は罪人の人生を終わらせること。それは、この世との契(ちぎ)りを断ち切る一刀なのだ。なまくらな腕で命に向き合うことは許さん」
    「…………」
     気力、体力、技術。多くのことを強制的に教わってきたが、士遠が最も口を酸っぱくして説いてきたのは、剣を扱う時の心構えについてだった。
     だが、そんな目に見えないものに意味があるとは思えなかった。
     納得いかない顔をしていると、士遠は組んでいた腕を解いて、竹刀を手に取った。
    「止(や)め。次は立ち稽古だ」
    「ちょっとは休ませてくれよ……」
    「ん、耳まで悪くなってしまったようだ。今なんと?」
    「なんでも、ありませんっ」
     肩で息をしながら、典坐は士遠と向かい合った。
     竹刀の先端と、苦々しい視線を、相手の閉ざされた瞳に向ける。堅苦しい生活を強要されるのも、無意味な稽古で疲弊するのも。そもそも全部この男のせいではないか──

     町で気に食わない侍を相手に暴れていた時に、止めに入ったのがこの男だった。
     相手は盲目。苛立っていたし、ついでにこいつもぶちのめそうと襲いかかった。
     ところが、あっと言う間にやられたのはこっちだった。何をされたのかもわからないうちに、典坐は仰向けに倒れていた。これまで喧嘩(けんか)で負けたことはなかったのに、目の見えない相手に土をつけられたと知られては仲間たちの笑い者だ。
    「ふ、ふざけんなっ」
     立ち上がって向かっていくが、赤子の手をひねるように簡単にひっくり返される。
     士遠は縦横に傷が入った眼を、倒れ伏す典坐に向けた。
    「ふむ……粗さが目立つが、筋は悪くない。度胸もある。お前は宿無しか?」
    「だからなんだよっ」
     嚙みつくように吼(ほ)えると、士遠は少し逡巡(しゅんじゅん)した後、こう言った。
    「強くなりたければ山田の道場に来なさい。少なくとも雨露はしのげる」
    「はあ? なんでオレがそんなとこっ」
    「飯も付いているぞ」
    「…………」
     ぐうと鳴った腹を押さえて、典坐は食ってかかった。
    「馬鹿にすんなっ。食い物くらい必要な時にかっぱらえばいいんだよ」
    「そんな生活を続けていれば、いつかお縄をくらうぞ。現にお前がさっき殴っていた相手は侍だろう。ただで済むと思うのか」
     地面には数人の侍たちが白目を剝いて転がっている。
    「はっ、先に因縁ふっかけてきたのはこいつらだ。見下しやがって、侍なんて大(でぇ)っ嫌(きれ)えだ」
     襤褸切(ぼろき)れをまとった典坐は、同じく侍であろう目の前の男に言い放った。
     すると士遠は、顎(あご)を撫でながら神妙な表情で応じた。
    「やられたからやり返す。つまり……目には目を、ということか」
    「……は?」
    「おや、通じないか。盲目ならではの冗談だ。道場の者は、結構笑ってくれるんだが」
    「全っ然面白くねえよ」
    「そうか……」
     士遠はなぜか少し残念そうに肩を落とすと、左手をゆっくり掲げる。
    「では、こういうのはどうだ。私は左手一本で相手をする。私が勝ったら、お前は門下生になる。お前が勝ったら、私を煮るなり焼くなり好きにしてもいい」
    「はあ? なんだよ、その条件。なんで俺が門下生なんかに」
    「お前に可能性を感じた。それだけだ。こう見えても、見る目はあるほうだからな」
    「それも冗談か? あまりふざけんなよ?」
    「ふざけていても、お前には勝てるさ」
     びきびきと典坐の額に血管が浮き上がった。
    「上等だっ。ぶっ殺す」
     いきり立って跳びかかり──典坐は瞬く間に完敗した。
     士遠はその後、目を覚ました侍たちに、「うちの門下生が大変失礼しました」と、深く頭を下げて謝罪をした。当然、相手は激高して刀を抜きかけたが、士遠は腰のものに手をかけて低い声で言った。
    「侍同士、もし刀を抜かれれば、こちらも応じずにはおれません。動く相手を斬るのは久しぶり。しかも、当方盲目により寸止めは保証しかねますのでご容赦ください」
    「おい、こいつ山田の……」
     侍の一人が士遠の正体に気づいたようで、結局悪態をつくだけで立ち去って行った。
     山田浅ェ門は、忌まわしき首斬り人であり、同時に当代きっての剣の達人でもある。それに御様御用(おためしごよう)を通じて、将軍家や大名とも繫(つな)がりがあるのだ。
     進んでことを構えたい者は、決して多くない。
     颯爽(さっそう)と歩き出した士遠は、典坐を振り返って言った。
    「何をぼうっと突っ立っている。道場はこっちだ」

     そんな経緯(けいい)で山田家の門弟になった訳だが、典坐は大いに騙(だま)された気分だった。確かに屋根と食事は確保されたが、稽古、稽古、稽古の毎日。生活習慣から態度や言葉遣いまで指導を受け、窮屈なことこの上ない。
     しかも、なんだかんだ助けられたという事実が、典坐の癪(しゃく)に障っていた。
    「うおおっ」
     竹刀を振り上げて斬りかかるが、あっさりといなされ、面を打たれてしまう。
     続く立ち合いでも胴を打ち据えられて、典坐は道場に大の字に転がった。
    「ち、畜生っ……」
    「まだ剣の扱いが雑だ。お前の感情を前面に押し出すやり方は否定しないが、それが空回りしている。怒り、そして──迷い」
    「だってよ、こんなことして……」
     何になるんだ、と典坐は思っている。
     元々、処刑人になりたかった訳でもないし、剣の達人を目指していた訳でもない。
     ただ成り行きでここにいるだけだ。苦々しい面持ちで唇を突き出すと、士遠は転がった典坐を見下ろしながら言った。
    「初めから高邁(こうまい)な精神を持って鍛錬に臨めとは言わん。だが、例えばこういう風に考えることもできはしないか。もし、いつかお前に守りたい者ができた時、鍛え上げた剣の腕は必ず助けになると」
    「守りたい者……?」
     そんな相手はいない。
     職なし。宿なし。金なし。親の顔だってまともに覚えちゃいない。守るものなど一つもなかったし、これからだってそうだ。その日その日を好きに生きて、いずれどこかで野垂れ死ぬ。未来の可能性なんかに想いを馳(は)せることなどありはしない。
     ──できるわけねーよ、そんな奴(やつ)。
     不満げに漏らした言葉は、道場の冷たい床板に溶けて消えていった。

     その日、典坐は荷物持ちとして士遠について外出することになっていた。
     花曇りというのか、空はどんよりとした雲に覆われている。
     道場を出る間際、前を歩く士遠がふいに立ち止まった。
    「どうしたんすか」
    「いや、もう春だというのに、あの桜だけがいまだに花をつけないな」
     確かに言われた通り、他の桜が満開の花びらをつける中、庭の端にある一本はいまだ固い蕾(つぼみ)のままだ。
    「ていうか、なんでわかるんだよ。見えねえのに」
    「言葉遣い」
    「……なんでわかるんすか?」
    「芽吹いた蕾(つぼみ)には未来に進む力強さを感じる。あの一本からはそれが感じられない」
    「そんなもんすかね……」
     咲き誇る薄紅色の木々に混じった、場違いな瘦せた桜。
     なんだかそれが自分のように感じられて、典坐は少し嫌な気分になった。
     士遠が手荷物を典坐に預けながら言う。
    「だが、同時に蕾というのはあらゆる可能性を秘めてもいる。いかようにでも化けられるのだからな。どんな花をつけるのか楽しみにしようじゃないか」
    「はあ……」
     生返事をして、典坐は師匠について歩き出した。
     曇り空の下、門を出てからしばらく進むと、士遠はある建物の前で足を止める。
    「ここに用事……?」
     それは寺院だった。砂利を敷き詰めた境内(けいだい)の奥から読経(どきょう)が聞こえてくる。
     処刑執行。刀剣の試し切り。死体の胆囊(たんのう)から作った丸薬。罪人の死を生業(なりわい)にしている山田家では、死人の供養のために懇意の寺に慰霊塔を建立しているのだが、典坐が首を傾(かし)げたのは、その寺が慰霊塔のある寺院ではなかったからだ。
    「個人的な用事だ。お前は待っていなさい」
     そう言って、典坐から荷物を受け取った士遠は、迎え出た和尚(おしょう)に手土産としてそれを渡した。しばらく和尚と話した後に、奥の墓地へと足を向ける。端に立つ小さな墓に手を合わせているようだが、典坐のいる場所からは良く見えない。
     ただ、墓に向かう士遠の背中には、何か言いようのない想いが宿っている気がした。
    「…………」
     所在のない典坐は、一旦寺院の外に出ることにした。
     辛気臭いのは好きじゃない。門の前でぼうっと立っていると、通りの向こうから襤褸(ぼろ)をまとった集団が近づいてきた。
    「おい、典坐じゃねえか」
    「お前ら……!」
     それは悪さをしていた時に、一緒につるんでいた仲間たちだった。
     見習いの立場で、なかなか自由に外出もできなかったため、山田家の門弟になってから会うのは初めてだった。懐かしさがこみ上げてきて、典坐は笑顔で彼らに駆け寄った。
    「久しぶりじゃねえか。元気だったか、お前ら」
     だが、かつての仲間たちの顔に友好の色は見られない。典坐は思わず立ち止まった。
    「どうしたんだよ、おい」
    「典坐よぉ。侍の子飼いになったってのは本当だったんだな」
    「え?」
     言われて、典坐は自分の姿に目を落とした。
     山田家の道着をまとい、腰に木刀を吊(つ)るした格好は、確かにそのように見える。
    「いや、だけどオレは……」
    「侍嫌いなんじゃなかったのかよ。すっかり懐いちまってるじゃねえか。飯と引き換えに魂を売りやがったのか?」
    「それは──」
     一瞬、言葉に詰まる。
     確かに野良で生きていた頃は、もっと好き勝手に過ごしていた。こんな道着をきて、決まった型を反復して、喋(しゃべ)り方まで気を遣いながら、生きてはいなかったはずだ。
    「べ、別に、オレだって好きでやってるわけじゃ……」
    「ああ、そうか。お前は喧嘩に負けて家来になったんだよな」
    「……なんだと?」
     鋭い眼光で睨(にら)みつけるも、かつての仲間たちは互いに顔を見合わせてせせら笑った。
    「しかも、目の見えない相手にコテンパンにのされたそうじゃねえか。あり得ねー。お前、弱くなったんじゃねえの? ひゃははっ」
     気づいた時には、もう相手に殴りかかっていた。
     多勢に無勢(ぶぜい)。だが、火のついた体は止まらない。
     手前の二人(ふたり)に拳を浴びせ、後ろの奴らに飛びかかる。途中で羽交(はが)い締めにされるが、頭突きで跳ね飛ばして、両手足を振り回して応戦した。一度殴られる間に、二度、三度と相手を打ち据える。昔から手数の多さには自信があった。地面に尻をついた男たちに向かって、典坐は大声で吠えた。
    「オレが弱くなったかどうか、確かめてみろよ。ああっ? お前らぶっ殺すぞ」
     典坐は腰にぶら下げた木刀に手を伸ばし──
    「たわけっ!」
     後ろから、ぐっと首根っこを摑(つか)まれて、勢いよく引き倒された。見上げると、そこには厳しい顔つきの師匠の姿がある。士遠は典坐を一瞥(いちべつ)すると、倒れている者たちに向き直って頭を下げた。
    「悪かった。この者は未熟なのだ。私からよく言っておく。本当にすまない」
    「ちっ……」
     侍に頭を下げられては立つ瀬がない。悪友だった者たちは口元の血を拭いながら立ち上がると、典坐を睨みつけて去って行った。
     士遠は立ち去る者たちの背中に顔を向けたまま、重たい声で言った。
    「典坐」
    「だ、だってよ、あいつらが……」
    「感情に振り回されるなと言ったはずだ。感情を持つことは否定せんが、それは正しい方向に制御しなければ、単なる意志なき暴発になる」
    「だけどっ」
     反論しようとしたら、襟首を両手で摑まれ、強引に立たされた。
     そのまま後ろの壁に、どすんと激しく押しつけられる。
    「典坐。本当に殺していたら、お前が死罪になっていたかもしれんのだぞ。こんなことで自分の可能性を潰す気かっ」
     いつになく士遠の表情と言葉は厳しく、本気の怒りをひしひしとその身に感じる。
     だが、いや、だからなのか、典坐は俯(うつむ)いたまま呟(つぶや)いた。
    「……ねえよ」
     顔を上げ、眉をひそめた目の前の相手を威嚇(いかく)するように口を開く。
    「どうせ可能性なんてねえよっ。身分もねえ。金もねえ。生まれた時から、オレに可能性なんかねえんだよっ」
    「…………」
     襟首を摑んだまま沈黙する士遠に、典坐は言い放った。
    「辞めてやる」
    「……何?」
    「辞めてやるよっ。もうこんな堅苦しい生活はまっぴらなんだよ! 剣の型だの、心の持ち方だの、どうでもいいんだよ! オレは好きに生きたいんだ!」
     大声で吠えると、士遠はゆっくりと襟から手を離した。
    「本気で言っているのか」
    「ああ、本気だね」
     睨みつけながら言うと、士遠はしばらく黙った後、口を開いた。
    「……だったら、条件がある」
    「条件?」
    「お前は私に負けて門弟になったのだから、出て行きたいなら私に勝利せねばならん。それが道理だろう」
    「そ、そんなこと」
    「できる訳ないか? 目の見えない相手に、随分と自信なさげじゃないか。さっきまでの強気はどうした」
    「じ、自信がねえ訳じゃねえっ」
     強がる典坐に、士遠は右手の人差し指をぴんと立てて見せた。
    「一本でいい。私から一本を取ってみせろ。どんな状況でも構わん。一本取れたら、お前が辞めるのを認めよう」
     わずかな沈黙の後、典坐は士遠の閉じた瞳を見つめた。
    「一本でいいんだな?」
    「ああ」
    「どんな状況でも?」
    「ああ」
     道場で正面から向かい合えば勝ち目は薄いが、どんな状況でもいいと言うなら話は別だ。
     互いに礼をして立ち合うなんていうお行儀の良い剣法は性に合っていない。
     不意打ち、闇討ち、元々そういうやり方のほうが得意なのだ。
    「わかった。男に二言はねえからな」
     念を押すと、士遠はおもむろに腕を組んで、首を縦に振った。
    「約束しよう」
  •  ──さて、どうすっかな。
     その後、道場に戻った典坐は、端であぐらをかきながら頰杖をついた。
     どうやってあの男から一本を取るか。
     実は寺院からの帰り道に、早速後ろから木刀を振り下ろしてみたのだが、あっさりかわされてしまった。さすがに約束した直後だったため、警戒されていたのだろう。
     師匠の士遠は、近いうちに御様御用で七日ほど道場を留守にすると聞いている。一刻も早く道場からオサラバしたい身としては、できれば士遠が旅立つ前に片をつけたい。
     だが、正攻法でいくのは現実的ではない。
     ──付け入る隙があるとすれば……。
     やはり、目だろう。
     日々接していると忘れそうになるが、士遠は目が見えないのだ。おそらく音や大気の流れ、つまり聴覚や触覚などの視覚以外の感覚で補っており、それがとんでもない水準にはあるのだろうが、どうしても見えている者と比べると反応は遅れるはず。
    「よし……」
     典坐は顔を上げた。

     作戦其(そ)の一──陽動。
     その日、士遠との立ち合い稽古で、道場で小さなどよめきが起こった。
     典坐が竹刀を二本、手に取ったのだ。勿論二刀流で戦うつもりはなく、士遠の鋭すぎる感覚を逆に利用しようと典坐は考えていた。
     向かい合って礼をする。その直後、典坐は片方の竹刀を放り投げた。それはゆるい放物線を描いて士遠の頭上を飛び越え、その背後にカツンッと音を立てて落ちる。
     ──今だっ!
     典坐は同時に床を蹴った。突然後ろで音がしたら、嫌でも気を取られるはず。特に、聴覚に多くを頼っているであろう相手なら尚更だ。
     士遠は一瞬、後ろを振り返った──かに思えたが、すぐに口元に笑みを浮かべる。
    「踏みこみが弱いぞ」
    「えっ」
     典坐の面は軽々と受け流され、代わりに胴を一閃(いっせん)された。
    「うぐっ」
     パシィと乾いた音が鳴った。腹を押さえて蹲(うずくま)る典坐に、師匠は涼しい顔を向ける。
    「まだ工夫が足りないな。見通しが甘いぞ」
    「ち、畜生っ」

     作戦其の二──不意打ち。
     今のは少々狙いすぎた。冗談で返す余裕すら相手にはあった。確かにあんな風に向かっていけば、何かあると警戒させてしまう。
     だったら次は予想もしていない状況で、攻撃がきたらどうだろう。
    「センセー、庭で打ちこみをしてきます」
    「ああ」
     士遠の許可を取って、庭に降り立った典坐は、並んだ巻(ま)き藁(わら)を相手に竹刀を振り始めた。
     振り下ろし。横薙(よこな)ぎ。袈裟懸(けさが)け。角度を変えながら、巻き藁に打ちこんでいく。
     表向きは真面目な態度を示しつつ、典坐は密(ひそ)かに不意打ちの機会を探ることにした。
     道場の戸は全て開放されているため、庭から道場内の様子がよく見える。竹刀を振りながら、横目で道場内に立つ士遠の様子を観察すると、衛善(えいぜん)と何かを話しているようだ。
     二人の顔がふと庭に向かった。
     ──いけねっ。
     慌てて視線を逸らして巻き藁に打ちこみを続けるが、どうやら彼らが注意を払っているのは、庭の奥に咲いている桜のようだ。士遠は腕組みをして、すぅと息を吸って言った。
    「いい香りだ。今年も見事に咲いたようですなぁ」
    「うむ。後は一本だけか。稽古終わりに花を肴(さかな)に一杯いきたいところだ」
    「私は昆布茶(こぶちゃ)を所望したいですな」
    「ほう、それも悪くない」
     ──ジジイかよ。
     この二人、時々妙に年寄りじみたところがある。
     そのまま観察を続けると、道場内で、期聖と源嗣(げんじ)が激しい打ち合いを始めた。
     やがて、期聖が右手を高々と掲げる。
    「よっしゃ、一本。俺の勝ちだ」
    「ふん、今のは油断しただけだ。これでお前が六百二十七勝、拙者が六百三十一勝か」
     苦々しい顔で舌打ちした源嗣に、期聖が食ってかかった。
    「はあ、逆だろ? 勝ち越してんのは俺だろうが」
    「何を言っている。勝ち越しは拙者だ」
    「数字も覚えられねえのかよ。これだから脳筋野郎は」
    「なんだと、このひねくれ坊主」
     あの二人は同期らしく、仲が良いのか悪いのか、よくいがみ合っている。
     二人の奥では、付知(ふち)と仙汰(せんた)が難しい顔をして話しこんでいた。
    「ねえ、仙ちゃんはどっちだと思う?」
    「いやぁ、僕にはなんとも……」
    「確かに一概には言えないけど、どちらかと言えば右だと思うんだ。左に比べれば少し低い位置にあるし、それが奥ゆかしさを表していると思わない? うーん、でも左は左で捨てがたいなぁ」
     付知が難しい顔をして、頭を抱えた。
     なんの話をしているのかと思って注意を払っていると、仙汰が困ったように答えた。
    「でも、左右どっちの腎臓が可愛いかなんて尋ねられても……」
     がく、と典坐の膝が折れた。
     ──ったく、本当に変な野郎ばっかりだ。
     だが、もうどうでもいい。
     どうせ自分はすぐにここから出て、自由の身に戻るのだから。
    「ええと、士遠さんはどう思います?」
     仙汰が助けを求めるように、士遠に声をかけた。衛善は既にその場を離れている。
    「難問だな……。というか、私に聞かれてもな」
     士遠の意識は今、完全に道場内へと向いている。
     ──ここだ!
     典坐は大きく息を吸って、竹刀を思い切り横に薙いだ。それは巻き藁に当たることなく、すっぽ抜けたように典坐の手から離れ、士遠の背中に飛んでいった。
     勿論、故意である。
     士遠の注意が逸れるのを、ずっと待っていたのだ。
     まさか話している最中に後ろから竹刀が飛んでくるとは思うまい。
     予想だにしない方向からの一撃。かわす術(すべ)はない。
    「よし、いっぽ……!」
     パシィィィ!
     ──え?
     突き上げかけた典坐の拳が止まった。士遠は何食わぬ顔で、飛んできた竹刀を受け止めていた。そのまま庭に降りて、典坐の手に握らせる。
    「竹刀が飛んでいくのは、握りが甘いからだ、典坐。何度も言っているだろう」
    「う……うす」
     また、失敗。

     作戦其の三──両手を塞ぐ。
     もうわかった。師匠相手に、中途半端な不意打ちは通用しない。すぐに気配を察知して、受け止められてしまう。
     であれば、強制的に両手が使えない状況で、打ちこんでみるのはどうだろう。
    「センセー、お茶いかがっすか」
     休憩時間になって、典坐は奥の座敷にいる士遠のもとを訪ねた。
    「ほう、気が利くじゃないか」
     顔をこちらに向けた士遠に、盆から湯飲みを手渡す。
    「この香り、昆布茶か。ありがたい、ちょうど飲みたいと思っていたところだ」
    「わかるんすか」
    「勿論だよ。私は昆布茶に目がないんだ」
    「センセー、本当に冗談が好きっすね……」
    「なかなかお前が笑ってくれんからな」
     ──今はそれどころじゃねえんだよ。
     早くこの男から一本を取らなければ、自由は得られないのだ。
     内心で思いながら、典坐は師匠の様子をじっと眺めた。
     士遠は湯飲みに両手を添え、湯気の立ち昇る表面にふーっと息を吹きかけている。
     そして、ゆっくりと口元へと持って行った。
     ──ここだぁっ!
     典坐は背中に隠し持っていた竹刀を、勢いよく士遠の頭上に振り下ろした。
     両手が塞がっている瞬間。仮に攻撃を察知したとしても、受け止めることはできない。
    「よし、いっぽ……あっちぃぃ!」
     典坐はその場で跳び上がった。士遠が咄嗟(とっさ)に、手にした茶を典坐に振りかけたのだ。
    「あつっ、あつつつっ」
     慌てて熱湯をかぶった道着を脱ぐ典坐に、士遠は涼しい顔で言った。
    「すまんな。うっかり零(こぼ)してしまったよ」
    「く、くそぉぉ」
     再び失敗。

     その後の挑戦も悉(ことごと)く不成功に終わり、いよいよ明日は士遠が遠出する日となった。
     次に帰ってくるのは七日後。今日を逃すと、しばらく間が空いてしまう。こちとら一日でも早く辞めたいというのに。
    「どうすりゃいいんだ……」
     道場の隅でうんうん唸(うな)っていると、佐切(さぎり)が近寄ってきた。
    「典坐殿。そんなところで頭を抱えてどうしたのです。頭痛なら付知殿が良い薬を持っていますよ」
    「ち、違っ。か、考えごとっすよ」
     典坐はしどろもどろに答えた。どうも佐切が相手だと、いつもの調子が出ない。
     自分が女慣れしていないせいもあるし、相手が当主の娘という立場のせいもある。
     しかも、佐切は綺麗(きれい)な顔立ちをしているので、近づくと緊張してしまうのだ。
     答えを聞いた佐切は露骨に驚いた顔を見せた。
    「典坐殿が……考えごとを?」
    「オ、オレだって考えごとくらいするっすよ。そりゃ頭は良くねーけど」
    「何を考えているんですか?」
    「それは……」
     少し言い淀(よど)んだ典坐だが、一人で考えても埒(らち)が明かない。
     今師匠はそばにいないし、結局聞いてみることにした。
    「士遠先生から一本取る方法?」
    「どうしても今日中に一本取りたいんすよ」
    「随分と急ですね。何か理由でも?」
    「べ、別に……」
     道場を辞めるため、とは言えないか。
     佐切はしばらく考えた後、拳をぐっと握ってみせた。
    「それはやはり鍛錬しかないでしょう」
    「真面目っすか」
     思わず突っこんだ典坐は、肩を落として溜め息をつく。
    「正攻法じゃ無理だから悩んでるんじゃないっすか」
    「そうでしょうか」
    「え?」
     顔を上げると、佐切は当たり前のように言った。
    「士遠先生は常々、典坐殿には才覚と可能性があると言っていました。一直線なところが典坐殿の良い部分でもありますし、変に考えすぎず真面目に修行すれば、典坐殿なら必ず一本取れますよ」
     ──また可能性かよ。
     クズ。ろくでなし。ごく潰し。世間からずっとそんな風に後ろ指を差されて生きてきたのだ。今さら取ってつけたように言われても、信じることなどできるはずがない。
     ──ねえよ、可能性なんて……。
     やはり相談など無意味だった。自分でなんとかするしかない。
     かくなる上は──

     深夜。
     稽古やお役目が終われば、多くの門弟たちは各自の家へと帰るが、宿なしの典坐は、師匠の住居に居候をしていた。
     ひっそりと静まった家の廊下を、そろそろと移動する影がある。
     足音を立てないよう注意を払いながら、典坐は士遠の寝所の前で腰を落とした。
     闇討ち。それが典坐の選んだ手段だった。
     睡眠中に攻撃を受けて防げる人間はいない。武士道とやらには反するかもしれないが、どんな状況でもいいと言ったのは師匠なのだ。
     息を殺しながら、ゆっくりと襖(ふすま)を開ける。これまで師匠の部屋に入ったことはなかったが、見る限り簡素な畳敷きの造りのようだ。
     暗闇の向こうから、静かな寝息が聞こえてくる。標的は布団で寝入っているようだ。
     竹刀を片手にすり足で部屋へと侵入した時、床の間に何かが置いてあるのに気づいた。
     ──位牌(いはい)?
     それは簡素な木造の位牌だった。彫られた文字は読めないし、師匠の部屋にどうしてそんなものがあるのか不思議に思ったが、典坐はすぐに首を振った。
     今そんなことはどうでもいい。大事なのは標的から一本を取ることだ。
     典坐は気配を消して、士遠の枕元へと歩み寄る。
     呼吸で布団がゆっくりと上下している。典坐は息を止めて、大きく竹刀を振りかぶった。
     ──悪く思うなよ、センセー。
     今度こそ確実だ。典坐は士遠の額を目掛け、真っすぐに竹刀を振り下ろした。が──
    「お前の夜這(よば)いは歓迎せんな」
    「──!」
     師匠がふいに言葉を発し、竹刀は空の布団を叩いた。脇から転がり出た士遠は、典坐の竹刀を素早く奪い取り、反転しながらその脛(すね)を打ち抜く。
    「いってぇぇっ」
     顔を歪(ゆが)めて座りこむ典坐に対して、士遠は飄々(ひょうひょう)とした様子だ。
    「視界に頼る人間には暗闇や死角からの攻撃が有効だが、生憎(あいにく)私はそうじゃない。いい加減小細工は通用しないことがわかっただろう」
     そろそろ真正面から向かってこい、と言っているのだ。
     それをわからせるために、どんな状況でも攻撃可能という条件を出した訳か。
     ──くそ……。
     こうして最後の機会も、敢(あ)え無(な)く失敗に終わった。
     結局、翌早朝になり、士遠は典坐に「留守を頼む」と申しつけて外出してしまった。強引に弟子入りさせられてから、これまで一度たりとも一本を取ることができないでいる。
     師匠が帰ってくるのは七日後。
     だから──典坐に残された手段は、もう一つだけだった。
  •  ──悪いな、センセー……。
     早朝、士遠が家を後にして間もなくのこと。
     戸締りを終えた典坐は、辺りの様子を確認しながら、早足で師匠の家から離れようとしていた。朝稽古に向かう訳ではない。足の向かう先は、道場と反対側の道だ。
     脱走。
     多少の後ろめたさはあるが、士遠が留守にした隙に逃げ出すのが最後の手段だった。
     このままでは、いつになったら一本取れるかわからない。むしろ、士遠は苦闘する典坐の様を楽しんでいるような気すら最近してきている。これは辞めると言った自分への嫌がらせなのではないか。
     だとしたら、これ以上付き合ってやる義理などない。
     一刻も早く、変人ばかりが集う道場の、がんじがらめの生活から抜け出すのだ。
     しかし、勇んで進めた足は、最初の曲がり角で止まった。
    「どこに行く気だ。道場は反対側だぞ」
    「衛善さん……!」
     背後からの声に振り返ると、そこには左眼に眼帯をした男が腕を組んで立っていた。
     ──待ち伏せされていた?
     典坐はぐっと唇を嚙んだ。
    「センセーに頼まれて、オレを見張りにやってきたのかよ?」
    「考えすぎだ。朝の散歩中に偶然通りがかっただけだ」
     衛善はどこまで本気かわからない調子で言って、ゆらりと一歩踏み出した。
    「ただ、お前と士遠が約束をしたのは聞いたぞ。一本を取ったらここを辞めると。お前は一本取ったのか?」
    「いや……」
    「男が一度口にした約束を反故(ほご)にする気か。それでも侍か」
    「侍になりたかった訳じゃねえ」
    「ならばお前は、何を目指している」
    「それは……」
     すぐに答えられない自分に典坐は気づいた。
     未来というものを、具体的に想像したことがなかったからだ。
     いずれ野垂れ死ぬだけの人生に、そんなものがあると思っていなかった。
    「オレを……連れ戻す気か?」
     てっきりそのつもりかと思ったが、衛善は軽く首をひねっただけだ。
    「好きにするがいいさ。私は士遠と違って、意欲のない者を必死に留(とど)めるほど暇じゃない」
    「……じゃあ、そうさせてもらいます」
    「だが、最後に散歩くらい付き合え。早起きするとやることがなくてな。最近は散歩が趣味なんだ」
     相変わらずジジ臭い話題だが、どこまで本気かよくわからない。
     しかし、この状況で断る訳にもいかず、典坐は黙って衛善の後に続くことにした。
     路傍の花を愛(め)でながら、衛善は機嫌良さそうに朝の散歩を続けている。用心しながら付いていくと、衛善が入ったのは前に士遠と来た寺院だった。
    「……?」
     朝靄(あさもや)の立ちこめる境内で、砂利の音を響かせながら、衛善は奥の墓場へと典坐を連れて行った。辿(たど)り着いたのは、端にある小さな墓だ。
     前に来た時に、士遠が手を合わせていたのを覚えている。
    「……どういうつもりっすか」
    「何、散歩ついでに墓参りをな。お前はこれが誰の墓か知っているか?」
    「そんなん知る訳ないでしょ」
    「そうか、士遠は言っていないようだな」
     衛善は、墓に彫られた文字を眺めてこう続けた。
    「ここに眠るのは、鉄心(てっしん)という名で、かつての士遠の弟弟子だった男だ」
    「弟弟子……?」
    「もう随分前のことだがな。お前に似て、とにかく素行が悪い奴だった。半(なか)ば親に勘当されるような形で山田家の門をくぐった。それで士遠が指導役を務めることになった」
    「…………」
     何が言いたいかわからず、典坐は怪訝(けげん)な表情で、衛善の横顔を見つめた。
    「才能は間違いなくあったが、如何(いかん)せんやる気というか、著しく意欲に欠けるところがあってな。道場での生活を堅苦しく感じていたようだ。その辺りも、お前みたいな奴だ」
    「じゃあ、随分とセンセーにしごかれたでしょ。オレみたいに」
     すると衛善は首を横に振った。
    「当時の士遠はどちらかというと自分の技術を上げることに執心していてな。今ほど弟弟子の指導に熱心ではなかった。士遠も鉄心の才能は認めていたし、素行は悪いものの憎めない奴で二人の仲は決して悪くなかったが、修行嫌いはどうしようもないと諦めていたな」
    「へえ」
    「結局、鉄心は好きに生きるという捨て台詞を残して道場を逃げ出した。それこそ、今のお前のようにな」
    「……何が言いたいんすか」
     わざわざこんなところまで連れてきた意味がわからない。
     典坐が尋ねると、衛善は顔を墓石に向けたまま続けた。
    「鉄心は手のつけられない乱暴者だったが、いざいなくなってみると、あいつの悪態も懐かしく感じられたな。とは言え、しばらくは何も変わらない日々が続いた。我らは腕を磨き、御様御用をこなす。いつも通りの日々だ」
    「…………」
     淡々とした衛善の口調に、典坐はなぜかざらりとした嫌な感覚を覚えた。
    「その日もいつもと同じように士遠は御様御用に出かけた。死罪人の罪は窃盗・殺人。所謂(いわゆる)押し入り強盗というやつだ。これもよくある話だ。士遠は仕事を果たすため、いつものように口縄をつけられ、紙で顔を覆われた罪人の脇に立った。しかし、振り上げた刀を、士遠はなかなか打ち降ろさなかった」
    「まさか……」
     ふいに訪れた予感に、とくんとくんと鼓動が速まるのを感じる。
    「ああ、相手の佇(たたず)まい、雰囲気から士遠は気づいたんだ。目の前の罪人が鉄心だとな」
    「……!」
     半ば予想された、しかし衝撃的な答えに、典坐は無意識に自身の胸を押さえた。
     本堂から朝の読経がしめやかに響き始める。
    「鉄心は道場を逃げ出した後、あちこちを放浪していたようだ。しかし、いつまでもそんな暮らしは続かん。やがて食うに困って民家に押し入り、抵抗した相手をはずみで殺してしまった。そのつもりはなかったかもしれんが、あいつは腕っぷしが強かったし、打ち所が悪ければ充分に相手を死に至らしめるくらいの力はあった」
     典坐はごくりと喉を鳴らした。
    「センセーは結局……どうしたんすか?」
    「無論斬ったさ。山田浅ェ門の刀は時代が振り下ろす刀。個人の感情で処刑を思い留(とど)まるなどあってはならない」
    「…………」
     沈黙する典坐に、衛善はぽつりと言った。
    「鉄心は少しも抵抗しなかったそうだ。士遠が鉄心に気づいたように、鉄心も士遠に気づいたんだろう。打ち首を言い渡された以上、山田浅ェ門の誰かが斬首(ざんしゅ)にやってくることは想像できた訳だしな。口縄をはめられてはいたが、士遠ははっきりと鉄心の最期の言葉を聞いた」
    「な、なんて……」
    「あいつはこう言ったんだと。──先生、ごめんなさい、と」
    「…………」
     典坐は何と言っていいのかわからなかった。
     ただ、言葉にできない感情が胸の中で渦を巻いていた。
    「自業自得と言えばそれまでだが、あの時の士遠の様子は見ていられなかったな。鉄心には確かな才能と可能性があった。なのに、士遠はその可能性を、摘み取ってしまったと激しく悔いていた。あいつが弟弟子の指導に熱を入れ、人助けをするようになったのはそれからだ」
    「そんなことが……」
     墓に手を合わせていた師匠の背中と、部屋にひっそりと安置されていた位牌を典坐は思い出す。
    「センセーは……センセーは、オレを……」
    「無頼者(ぶらいもの)として生きれば、いずれ鉄心のような末路を辿るかもしれん。お前の才能はそうやって潰れていくには惜しいと感じたのだろう。だが、出て行くという奴を止められはせん。だから、士遠は条件を出した」
    「センセーから……一本を取る」
     衛善は首を縦に振った。
    「士遠から一本を取れるくらいの実力があれば、いざとなれば剣の道で身を立てることもできるだろう。お前が道場を辞めても、食っていく道を拓(ひら)くことができる」
     ああ、と典坐は呻いた。
     嫌がらせなどではなかったのだ。あろうはずがなかったのだ。
     日頃の厳しい修行も。
     困難な条件も。
     昔の仲間たちと揉(も)めて、殺すぞと相手を脅した時、士遠は本気で怒っていた。
     それらは全て──
    「どうする? お前は一本も取らずに逃げ出すのか?」
     衛善の問いに、典坐は立ちすくんだまま、両の拳を痛いほど握りしめた。
    「オレは、オレは──……」
  •  七日後。
     スズメのさえずる朝に、用事を終えた士遠が、山田家の道場に戻ってきた。
     門をくぐるなり、その前に立ちはだかる影があった。
    「典坐か」
    「センセー、立ち合い稽古をしてくれ」
     竹刀を握った典坐は、真っすぐに士遠を見て言った。
     まるで戦場から帰ったように、その体には幾つもの生傷が刻まれている。
    「おい、典坐。センセイは長旅で疲れてんだぞ」
     後ろから期聖が言うが、士遠は少し口の端を上げて答えた。
    「構わんよ」
     荷物を下ろし、道着に着替えた師匠と、典坐は道場で向かい合う。
     互いに礼をして、竹刀の先を軽く合わせると、すぐに戦いが開始した。
    「はっ!」
     踏みこみとともに典坐は得物を一閃。それを受けた士遠が、素早く打ち返す。
     咄嗟に一歩下がった典坐は、師匠の一振りをかわし、再度打ちこむ。
     二人の竹刀が幾度も交わり、衝撃音が道場に立て続けに響いた。
    「ほう」
     士遠が短く息を吐く。
     ──さぼってはいなかったようだな。
     言葉はなかったが、そう聞こえた気がした。いや、言葉などいらない。その打ち筋が、その一撃が、その踏みこみが、全てを雄弁に語っているのだから。
     ──ああ、真面目にやったさ。人生で一番真面目に。
     想いを乗せて、典坐は士遠に打ちこむ。
     衛善から師匠の昔の弟弟子の話を聞いた後、典坐の中で何かが変わった。
     居ても立っても居られなくなり、すぐに道場に戻って、素振りを開始した。
     そして、兄弟子たちに頭を下げて教えを請うた。
     衛善は正しい型を丁寧に教えてくれた。
     面倒臭いと言いながら、期聖が立ち合いの相手をしてくれた。
     源嗣の力業、佐切の技術は、戦いの幅を広げるのに大いに参考になった。
     仙汰は剣術の理論を説明してくれ、付知は人体の構造を教えてくれた。
     十禾(じっか)の遊郭の誘いは断ったが、その後は渋々修行につきあってくれた。
     変人ばかりだと、どこかで斜めに見ていた彼らは、例外なく剣の達人だった。
    「だが、まだ脇が甘いぞ」
     それでも師匠との実力差は歴然としてある。
     一瞬の隙をつかれ、脳天に鋭い一撃をお見舞いされた。
    「もう一回っ!」
     しかし、典坐は諦めない。
     すぐに一礼をすると、体勢を立て直して士遠に向かっていく。
     打ち、流され、薙いで、受けられ、返す刀で胴を突かれる。
     呻く時間はほんのわずか、すぐに立ち合いを再開する。
     何度も。
     何度でも。
     だが、そのたびに士遠の鋭い剣技が典坐を容赦なく打ち据えた。
     もうどれくらいやられただろうか。激しく息が上がり、肩が大きく上下する。これまでならとっくに諦めて、床に大の字に寝転がっていたはず。
     それでも典坐は立ち向かっていく。
    「まだまだぁ!」
     腹が減れば奪う。気に入らなければ殴る。
     これまでの人生、その時々で、気の向くまま風の向くまま、好きなように生きてきた。
     しかし、ふらふらと漂っていた意志は、たった今明確な焦点を結んでいる。
     ──一本を……一本を取りたい。
     ほんの少し先の、しかし、はっきりとした未来の目標を典坐は心に抱いた。
     ──この人から、一本を取りたいんだ。
     クズ。ろくでなし。ごく潰し。
     ずっとそう言われて生きてきた自分の、可能性を初めて信じてくれた人から。
     そして、信じ続けてくれた人から。
     小細工を弄するのではなく、正面から挑んで認められたい。
     ──なあ、センセー。オレは──。
     無数に交錯する竹の刃。
     激しく交わる鮮烈な一振り一振りが、千の言葉を交わすよりも濃い想いを伝え届ける。
     ──オレは……オレの可能性を、信じてもいいのかな……?
     身分もない。金もない。宿もない。
     可能性なんてない。
     これまでずっと、そうやって何かのせいにしてきた。
     だけど、誰よりも自分の可能性を信じていなかったのは、自分自身だったのだ。
     ──こんなオレでも、未来を願っていいのかな……?
     この道場で、
     仲間とともに腕を磨き、
     時に厳しく、激しく、それでも笑い合って、
     そんな未来を、自分も思い描いていいのだろうか。
     そして、いつか師匠が言ったように──……
     ──オレにも……オレにも、守りたい人ができるのかな……?
     そのための技を、
     そのための心を、
     そのための強さを、
     自分は手に入れられるのだろうか。
     汗にまみれた典坐の頰を、一筋の熱い滴が流れ落ちる。
     滲(にじ)む視界の中で、士遠がほんの少し笑った気がした。
     直後、ふいに世界がゆっくりと動いて見えた。
     気力、体力、技術の限界を超えた先にふと訪れた一瞬の閃(ひらめ)きが、典坐に寸刻先の未来を予感させる。
     面がくる──
    「小手ぇっ!」
     パシィと細く高い音が、道場に響きわたった。
     士遠の振り上げた手首を、典坐の竹刀の先がしっかりと捉えていた。
     辺りは時が止まったかのような静寂に包まれる。
     無我夢中だった。打った典坐すら何が起きたのかわからず、しばらく呆然(ぼうぜん)としていた。
     そして、恐る恐る呟いた。
    「取った……?」
     見守っていた兄弟子たちの笑顔で、ようやく実感が伴ってくる。
     取った。自分は、遂にこの人から──
    「おっしゃあぁぁぁっ! 一本、取ったぞぉぉぉーっ!」
     両手を天井に突き上げて、雄叫びを上げる。
    「道場で騒がない」
    「あたっ」
     師匠に竹刀の先で小突かれて、典坐は額を押さえた。
    「だが……見事だった」
     士遠は少しだけ表情を緩め、しかし、すぐに口元を引き締めて言った。
    「合格だ。後は好きにしなさい」
    「…………」
     一本を取れば辞めることを認める。
     その条件のことは道場の兄弟子たちも知っていた。
     彼らが固唾(かたず)を飲んで見守る中、典坐は黙って道場の板の間に腰を下ろした。
     真正面から師匠を見据えて、おもむろに口を開く。
    「センセー」
     もう、心は決まっていた。
     伝える言葉はわかっていた。
    「これからも……これからもオレに剣を教え……あ、いやっ」
     そこで気づいたように居住まいを正すと、典坐は床に手をついて頭を下げた。
    「先生っ! これからも自分に剣を教えてくださいっす!」
     今日一番の大声が道場に響き渡り、そして──
    「勿論だ」
     士遠は何かを嚙みしめるように、ゆっくりと首を縦に振った。
     過去を思い返すように、しばし虚空に顔を向け、再び典坐に向き直る。
    「だが、厳しい道だぞ」
    「望むところっす。もう中途半端に辞めるなんてできないっす」
     典坐は勢いよく答えて、にやりと笑った。
    「だって、先生にはたくさん目をかけてもらいましたから」
    「……どうやらもう一本取られたようだ」
     士遠が口元を綻(ほころ)ばせ、道場に小さな笑い声が起こる。
     春の香りを乗せた風が、開け放った扉を通り過ぎていった。
    「ほう……」
     縁側に目をやった衛善がふいに声を漏らす。
    「どうしたのですか、衛善殿?」
     隣に立っていた佐切が尋ねると、衛善は笑みを浮かべて答えた。
    「いや、しっかり咲いたじゃないか」
     庭に並ぶ桜の木。硬い蕾に覆われていた最後の一本が、柔らかな朝陽に包まれて、見事な花を咲かせていた。
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第四話 桜咲く庭
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終幕
  •  時間の砂はゆっくりと、しかし確実に流れ落ちる。
     黒一色に覆われていた神仙郷(しんせんきょう)の空が、少しずつ白み始め、心地よく漂う思考に身を委ねていた山田浅ェ門(やまだあさえもん)たちの意識も、それとともに鮮明さを帯びていく。

     ──必ず任務をやり遂げましょう、画眉丸(がびまる)。
     森の中で、山田家当主の娘は、抜け忍の願いの強さと自身の覚悟を確認し、
     ──兄さん。ついていきますよ。これまでと同じように。
     繁みの奥で、二人(ふたり)兄弟の弟は、ずっと変わらないものを見つめ、
     ──僕はどうしてしまったんだろうか……。
     大木の空洞(うろ)で、かつて画家を志した男は、くの一に抱いた興味と戸惑いを胸に秘め、
     ──守りたい者……。それが今っすよね、先生。
     海沿いの砂浜で、熱き心の青年は、山の民(サンカ)の少女の熱を握った手の平で確認した。

     うたかたの夢は早天の薄い陽射しに溶けて消え、悪夢を越える現実が、再び彼らの前に舞い降りる。
     今、神仙郷、二日目の朝が始まる──
終幕
目次
序幕
公開は終了しました
終幕
※序幕、第⼀話、第⼆話の無料公開は4⽉30⽇(⼟)23時59分まで。第三話、第四話、終幕の無料公開は5⽉31⽇(⽕)23時59分まで。