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「お逃げ」
なだらかな丘の上で、中腰になった小柄な人物が静かに言った。
黒い肩衣(かたぎぬ)をまとい、一見すると由緒正しい侍の出で立ちだが、変わっているのは刀を二本背負っていること。そして、本来刀を差すはずの腰に、巾着を改良した道具入れがぶら下がっていることだ。
そこには小刀や、曲がりくねった金具、匙(さじ)のついた金属棒など見慣れぬ小道具が丁寧におさめられている。背負った刀のうち一本は、尖った歯が連なる片刃鋸(のこぎり)で、もう一本も先端が曲線を描いた特殊な加工が施されている。
それらは全て、ある目的のために特別にしつらえたものだ。
解剖。
試一刀流(ためしいっとりゅう)九位─山田浅ェ門付知(やまだあさえもんふち)にとって、それは生命を知るための行為だった。
ただ─
「本当は君を解剖してみたかったけど……今は誰の命も奪う気になれない」
付知は、視線の先にいる生き物に向けて呟いた。
それは岩山で遭遇した亜左(あざ)兄弟が連れていた生命体だ。
道士(どうし)、と桐馬(とうま)が呼んでいたが、球根のような、根菜のような、なんとも形容しがたい頭部を持っている。どこが目でどこが耳なのかすらわからないが、どうやら見えてもいるし聞こえてもいるようだ。戦いで失ったのか、下半身は既に消失しており、上半身だけで活動している時点でこれが尋常な存在でないことは明らかだ。
医学探究の徒としても、神仙郷の謎を解く意味でも、この奇怪な生命体を殺して解剖しない手はない。それなのに、今はそんな気になれなかった。
きっと、道場時代から親友だった仙汰(せんた)の死を知ったせいだ。
今、論理的に取るべき行動と、自らの感情が乖離していることを自覚する。
「わからない……」
付知は苦しげに呟いた。
論理。理屈。整然と紐(ひも)づけられた美しき体系の中にこそ真理がある。それを解き明かすことが自らの使命であり、人類に貢献する道だと思っていた。
ずっとそう考えてきたし、ずっとそう信じてきた。生命の深淵にはいまだ届かずとも、積み上げてきた知識と思考量にはそれなりの自負がある。
なのに、神仙郷に来てからというもの、わからないことばかりだ。
ここでは見たことも聞いたこともない生き物が闊歩し、氣(タオ)という触れることもできない妙な力が蠢(うごめ)いている。何より、死刑執行人である山田浅ェ門の自分が、目付け役という職務を越えて、死罪人と命運を共にしているという事実。
ずっと生命のことを知ろうと思っていた。
少しは知ったつもりになっていた。
だけど、ここで生命に触れ、友を失い、生命の大切さを知って─そして、今、本音では全員での生還を願ってしまっている。
死罪を許されるのは、願いが叶うのは、一人のみだと知っているはずなのに。
「僕は─僕達は、矛盾している……」
身体を引きずるようにして逃げる道士の背中を見つめる付知の脳裏に、遠き日の記憶が蘇った。
-
触れ得ぬものは肯定できない。
それが山田浅ェ門付知の信条だった。
例えば占いのような漠然とした未来予想。
例えばゲン担ぎのような無意味な法則の妄信。
例えば神頼みのような不確実な願望の叶え方。
そういったものを付知は信じることができない。
なぜなら真実にはいつも明確な形があり、論理的な再現性を伴うものだから。
それなのに、見えないものに振り回されている人間のなんと多いことか。
「ねえ、君もそう思わない?」
冷水に浸した刃物に、付知の丸い瞳が映り込んでいる。
溢(あふ)れんばかりの好奇心を湛(たた)えたその目を、付知は木台に横たわる人物に向けた。
反応はない。相手は四肢をだらんと投げ出し、衣一枚すら身につけていない。付知は気にする様子もなく、その露出した腹部に、おもむろに刃先を添えた。
ぷつり、と鋭利な先端が皮膚に食い込む感触が伝わる。
「さあ、見せてくれ」
付知はそう呟いて、右手をまっすぐに引いた。
綺麗(きれい)な縦線が、相手の腹の上に描かれる。薄皮である表皮が、その下にある少し硬い真皮とともに左右に裂けた。奥には黄色い脂肪の層が待ち受けている。刃に脂がつくと切れ味が鈍るので、拭い取りながら、素早く脂肪の森を抜ける。
最下層に現れたのは弾力を持つ薄紅色の筋肉だ。
少し力を込めて、しかし、内部までは傷つけないよう慎重に、筋肉とその下の膜を切り開くと、まだみずみずしさを保った腸の一部が顔を覗(のぞ)かせた。
横たわる人物は、腹を切り裂かれているというのに身じろぎ一つしない。
それもそのはず、相手の首は既に斬り落とされているのだから。
「うん、やっぱり内臓は可愛(かわい)いな」
死刑執行人。首斬り浅。様々な呼び方で時に揶揄(やゆ)される山田浅ェ門には、処刑した死体をもらい受け、刀鑑定用の試し斬りに使ったり、脳や胆囊(たんのう)から丸薬を製造したりといった死体取り扱い業としての顔がある。
とりわけ付知にとっては、死体の扱いはそれ以上の意味を持っていた。解剖という行為は、ただ丸薬の材料を取り出すだけではなく、人体の構造と機能を知り、理解するための神聖な営みだ。
その先には、医学の発展という人類への貢献がある。
道場の倉を改造した研究室で、身体の内側に広がる真実に手を触れる時間が、付知は好きだった。
「付知殿」
ふいに後ろから名を呼ばれ、付知は刃先を止めた。
振り返ると、扉が薄く開いており、明るい陽光が差し込んでいる。死体が傷まないように倉の扉はいつも閉めているので、わずかな光でもやけに眩しく感じる。
目を細めて眺めると、逆光の中に立つのは、黒髪を後ろで一つに結んだ山田家当主の娘。
その三歩ほど後ろに、眼鏡(めがね)をかけたふくよかな体型の同僚がいる。
「佐切(さぎ)……仙ちゃん……どうしたの?」
わずかに顔をしかめている佐切(さぎり)に、付知は言った。仙汰に至っては明らかに距離を取っている。扉の隙間から覗く佐切は、腹のぽっかり開いた死体をなんとも言えない表情で見つめ、遠慮がちに口を開いた。
「その、今日はみんなで団子を食べようって」
「あ、そうだった」
評判の団子屋が町にできたという噂を仙汰が聞きつけ、三人で行ってみようと約束していたのだった。
「じゃあ、終わらせて準備しないとね。佐切も腑分け手伝う?」
「あ、えっと、うーん……」
「この罪人、押し込み強盗で四人殺した凶悪犯なんだけど、内臓は結構可愛いよ。肝臓なんか特につるっとして頰(ほお)ずりしたいくらい」
「頰ずりは、したくないです……」
「仙ちゃんは?」
「あ、いや、僕はいいですっ」
仙汰は慌てて首を横に振った。長年解剖について語って聞かせた甲斐(かい)があってか、佐切は最近少しずつ興味を持ち始めているようだが、仙汰のほうはからっきしである。
しかし、彼らは付知の行為を決して否定はしない。神妙な表情を浮かべたり、時には青ざめた顔をしながらも、興味深く話を聞いてくれる。その関係性が心地よく、自然と仕事や稽古の合間によく三人で集まって茶を飲むようになっていた。
付知は血に塗(まみ)れた手を拭うと、くすりと笑った。
「じゃあ、ちょっと待っててくれる? すぐに終わらせるから」
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五月(さつき)晴れの空の下、江戸の往来はいつものように賑(にぎ)わいに満ちていた。
ついさっきまで死臭漂う薄暗い空間にいたため、眩しいほどの活気を全身に浴びると、まるで別世界に来たように感じる。
件(くだん)の団子屋の軒先に出された席に、三人は腰を下ろした。
「ん、美味(おい)しい……!」
串団子を口に含んだ佐切が、目を見開いた。
こんがりと焼き色のついた団子から、香ばしい醬油の香りが漂ってくる。
佐切はもぐもぐと顎(あご)を上下させながら、感心したように頷いた。
「仙汰殿の見つけてくる店は、本当にいつも間違いありませんね」
「ふふふ、ここは草団子も絶品という噂なんですよ」
眼鏡の縁を得意げに持ち上げた仙汰は、まだ団子に手をつけておらず、帳面を開いて楽しそうに筆を動かしている。紙面の団子は匂い立つような質感で描写されており、さすが画家を目指していたというのは伊達ではない。
空は快晴。桜の時期は少し過ぎてしまったため、花より団子とはいかないが、木々の新緑が目に眩しく、絶好の団子日和(びより)であることは確かだ。
仙汰おすすめの草団子を、付知は頰張ってみた。
「あ、本当だ。草団子おいしいね。よもぎの香りがすっごくいい」
「え、ちょっともらってもいいですか、付知殿」
「うん、佐切の醬油団子も食べてみたいな」
「じゃあ、串を一本交換しましょう」
草団子と醬油団子を一本ずつ交換する。醬油団子のこんがりした焼き目が食欲を誘い、頭からぱくりとかぶりついた。
すると、仙汰が筆を持つ手を止め、じっとこっちを眺めている。
「ん? どうしたの、仙ちゃん」
「いや、いつも思うんだけど、腑分けの直後によく食べられるなぁって……」
「腑分けは腑分け。団子は団子。そこに論理的な関連性なんてないからね」
「まあ、そうなんだろうけど……」
付知は佐切からもらった醬油団子を、おもむろに顔の前に掲げた。
「でも……この醬油団子、よく見るとさっき取り出した胆囊に似てるかも」
「ええっ、そういうこと言わないで」
仙汰は青ざめて、醬油団子の載った皿を遠ざけた。
「首は斬るのに死体は苦手だなんて変わってるよね、仙ちゃん」
「首を斬るのは、お役目だから……」
うつむいて答える仙汰に、付知は明るい調子で両手を広げる。
「うん、すっごく意義のあるお役目だよ。仙ちゃん達がたくさん首を斬ってくれるから、たくさん解剖ができて、医学の発展に繫がる。感謝してるよ」
「うぅ、喜んでいいのかな……」
「勿論(もちろん)っ。それに、死体は全然怖くないよ。むしろ下手(へた)に生きてる人間より、つきあいやすいくらい」
「そういうものですか?」
驚いて言う佐切に、付知は頷いてみせた。
「だって、人は噓をつくけど、死体は噓をつかないからね」
「…………」
顔を見合わせる二人を前に、付知は胆囊によく似た団子を口の中に放りこむ。
「どんな生き方をしてきたのか。どういう理由で死んだのか。もし今僕が死んだら解剖で最後に団子を食べたってこともわかる。死体は時に生きている人間より雄弁なんだ」
「なるほど……」
佐切は感心した様子で首を縦に振った後、わずかに身を引いた。
「でも、付知殿。その……罪人の軀(むくろ)をいじるのを、少し怖いと思ったことはないですか」
「ないね。罪人だろうが、善人だろうが、一皮剝けば中身は僕らと同じだし」
「中身は同じ……でも、化けて出られるとか」
「幽霊なんていないよ」
「言い切りましたね」
付知は三つ目の醬油団子を串から齧(かじ)り取った。
「僕は触れられるものしか信じないから」
「ですが、前に期聖(きしょう)殿が髪の長い女の幽霊を見たって」
「おおかた風に揺れる柳と見間違えたんじゃないかな。期の字はああ見えて意外と怖がりだから」
「源嗣(げんじ)殿が天井から覗いてる人の顔を見たって」
「三つのシミが三角に並んでると顔に見えるもんだよ。お源も体は大きいのに、肝が小さいところがあるよね。あの二人、いがみ合ってる割によく似てる」
「十禾(じっか)殿が恐ろしい女の霊に追いかけられたって」
「それは幽霊じゃなくて、本物だと思うよ」
「う、それはそうかも……」
きっと相手の女が、この世のものとは思えないほどの形相をしていたのだろう。
一体何をやらかした、十禾。
「でも、葛飾北斎(かつしかほくさい)、円山応挙(まるやまおうきょ)、歌川国芳(うたがわくによし)。古今東西、様々な幽霊画が描かれています。それは幽霊の存在を肯定する材料にならないですかね」
仙汰が右手を小さく挙げて議論に入ってきた。
三人で集まると、何気ない話題が、こうして発展していくことがよくある。
そんな時間もまた付知にとっては心地よいものだった。
「幽霊画は幾つか見たことがあるけど、逆に幽霊なんていないと思ったけどね」
「どういうこと……?」
怪訝(けげん)な顔の仙汰に、付知はこう続けた。
「だって、幽霊画には足のない幽霊がよく描かれてるけど、そもそも足がないのにどうやって移動するのさ」
「それは、その、霊魂だから、浮いて……」
「ということはほとんど質量がない訳だよね」
「そうなる、かな?」
「なるよ。鳥みたいな羽がある訳でもない以上、人間大の物体が浮かび上がるには体重を極限まで軽くするしかない。でも、人が考えて動くには相応の質量が必要でしょ。脳だって心臓だって筋肉だって結構重い訳だし」
「まあ、確かに……」
「人を脅かせるほどの知能や身体機能と、風に浮かべるほどの軽量化は両立し得ない。つまり、幽霊の存在は論理的に矛盾している。だから、いない。以上」
「うーん……」
「逆にもし幽霊がいるなら是非会ってどう動いているのか聞いてみたいな。そこには僕の知らない理屈があるってことだから」
「むむぅ……」
仙汰と佐切は腕を組んで同時に唸(うな)った。
「なんか、そこまで言われると、確かにいないような……」
「付知殿は、本当に論理的ですね」
付知は当然といった風に頷く。
「物事を把握するには、因果関係を正しく理解することが必要だからね。逆にどうして幽霊みたいに論理的に矛盾した存在にみんなが振り回されるのか不思議でならないな」
「耳の痛い話です……」
佐切が申し訳なさそうに答えると、ふいに往来の向こうが騒がしくなった。
人々のざわめきだけではなく、どこかから鐘の音も聞こえる。
「あれ、これってまさか……?」
佐切が首を巡らせ、仙汰が立ち上がった。
「火事、かな……?」
よく見ると、視界の奥で黒煙が空に立ち昇っている。
鐘の音は、おそらく火事を知らせる火の見櫓(やぐら)の半鐘だ。
火事と喧嘩(けんか)は江戸の華。
煙に吸い寄せられるように、江戸っ子達が火事場のほうへ駆け出していった。
「私達はどうしましょう?」
「別にいいよ。興味なし。火事なんて江戸じゃあよくあることだし。下手に見物なんか行って手討ちにされても困るしね」
火事場泥棒などの二次被害をおさえるために、幕府から火事見物は禁止というお触れが出ている。付知は腰を下ろしたまま、団子をのんびりと口に入れた。
その泰然とした態度に、佐切も仙汰と顔を見合わせて席につく。
「確かに……我々に何かができる訳でもないですしね」
一通り団子を平らげ、そろそろ道場に戻ろうと立ち上がったところ、様子を見に行った野次馬達が何人か戻ってきた。彼らに別の町人が声をかける。
「おい、どうだった」
「ああ、五町先の長屋で火が出たみたいだ」
「かなり燃えてんのか」
「いや、すぐに火消しが出て、大して燃え広がっちゃいねえよ」
「てやんでぇ、面白くねぇ」
そんな会話を耳にしながら三人で並んで歩き出すと、「ただよ─」と野次馬の声が聞こえた。
「一人逃げ遅れたみたいで、焼け跡から仏さんが出てきたってよ」
ぴた、と付知の足が止まる。
恐る恐る振り返った佐切と仙汰に、付知は丸い瞳を輝かせて言った。
「佐切、仙ちゃん、やっぱり行ってみよう!」
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江戸の住居は、武士の住まう武家屋敷、神社仏閣のある寺社地、そして庶民の町人地に大きく分けられている。町人は長屋と呼ばれる集合住宅を借りるのが一般的で、火事現場もそんな長屋が密集した一画にあった。
幸い炎は他の建物に燃え移ってはいない。というより、現場周囲の建物は火元をぐるりと取り囲む形で既に取り壊されており、火消し達が周囲を慌ただしく動き回っている。
十分な水がすぐに用意できないため、江戸の火事では、消火より延焼を防ぐことに重きが置かれる。火が燃え広がる対象を先んじて取り壊し、防火帯を作ることで消火を図る破壊消防というやり方だ。従って、火元になった建物は、燃え尽きるのを待つ他ないため、ほぼ全焼と言っていい状態だ。もはや原形は留(とど)めていないが、燃えるものは燃やし尽くしたのか、火勢はもうおさまりつつある。
火事見物禁止のお触れがあるため、三人はやや遠巻きに煙の立ち昇る現場を眺めていた。
「まったく、さっきは興味ないって言ってたのに……」
半ば呆れ口調の仙汰に、付知は唇をとがらせる。
「だって、せっかく焼死体が出たなら見ておかないと」
火刑になった死罪人を目にすることはあるが、それほど多くはない。そもそも火あぶりになった罪人は、損傷がひどくて試し斬りや丸薬製造には適さないため、付知のところにまわってくることが少ないのだ。
隣に立つ佐切がたしなめるように口を開く。
「ですが、付知殿、さすがに火事のご遺体を貰(もら)い受ける訳にはいきませんよ」
「わかってるよ、佐切。あくまで見物だから」
「当然、解剖ができる訳でもありませんし」
「わかってるって。少しは信用してよ」
そう答える付知の視線は、黒ずんだ長屋の残骸ではなく、手前の地面にひかれたムシロに向けられている。上からもムシロがかけられているため確認はできないが、おそらく発見された遺体があるのだろう。
「おうおう、見世物じゃねえぞ。野次馬は散れ散れ」
遺体の脇に立つ男が、犬を追い払うような仕草を見物人達に見せた。
黒の紋付羽織。結った髷(まげ)がトサカのように逆立っており、帯には大小の刀と十手(じって)が水平に差してある。市中の警備を司る同心だ。
「泣く子も黙る鬼の沢村(さわむら)ってのは俺のことだ。言うことを聞かねえ奴ぁたたっ斬るぞ」
沢村、と名乗った同心は威勢よく声を張り上げ、野次馬を睨(にら)みつける。勢いに怯(ひる)んだ者達が逃げるように現場を離れていった。
「ったく、火の扱いにゃ気をつけろって、何度言ってもこんな馬鹿が出てきやがる」
悪態をつく沢村に、部下と思(おぼ)しき岡っ引きが言った。
「行燈(あんどん)の火種でも残ってたんですかね」
沢村の吊り上がった両眉が、更に鋭角になった。
「あぁ、馬鹿か、おめえは? こんな真っ昼間に行燈なんか使う訳ねえだろ」
「あ、そ、そうか」
「寝煙草(たばこ)に決まってんだろがよ。裏長屋で起こる火事なんざぁ、大半が寝煙草からって相場が決まってんだ」
「本当にそうでしょうか?」
「あぁ? てめえ、俺に口答えする気か。いい度胸じゃねえか、こらっ」
沢村が部下の岡っ引きの襟首を勢いよく摑(つか)み上げた。
「ち、違いますっ。今の俺じゃないですって」
「あぁ?」
げほげほと咳き込んだ部下は、おびえた表情で右隣を指さした。そこには発見された焼死体を一時的に安置しているムシロがある。今、その脇で中腰になって、ムシロをめくりあげている人物がいた。
黒い肩衣をまとい、二本の刀を背中に負っている。
真横に切り揃えられた前髪の下で、丸い二つの瞳が爛々(らんらん)と輝いていた。
「おい、てめえはなんだ」
「ああ、お気になさらず。通りすがりの者です」
付知は相手に向けて、右手を軽く上げて見せた。しかし、その視線はちらりとも同心に向かず、ムシロに横たわる遺体のみに注がれている。
禍々しい火傷(やけど)が皮膚の深層まで到達し、あちこちが黒く炭化している。熱の作用で四肢の筋肉は収縮し、まるで炎に抗うように拳を構える姿勢を取っていた。左手の小指は欠けており、焼けただれた断面に骨が覗いている。高熱で炙(あぶ)られた顔面の、少し開いた口からは今にも苦悶の呻(うめ)き声が聞こえてきそうだ。
「なるほど……よく焼けてる」
「え、あれっ? 付知殿、いつの間にっ!」
「あわわ、一瞬目を離した隙に……」
佐切と仙汰が、ようやく気づいたように付知のもとへ駆けてきた。
「通りすがりだぁ? ふざけてんのか、てめえは」
沢村が低い声色(こわいろ)でゆっくりと近づいてくる。
「おい。お上から火事見物が禁止されてんのは知ってるよなぁ」
その指先が、おもむろに腰の刀の柄(つか)に伸びた。
「それで、聞き分けの悪い野郎は、斬り捨てても構わねぇのも知ってるよなぁ?」
威圧感たっぷりに歩み寄ってくる沢村を、付知は迷惑そうに見上げる。
「ちょっとすいません。今、集中してるんで静かにしてもらえます?」
「てめえ、死んだぞ、こらぁっ!」
同心が渾身の力で振り降ろした刃は、しかし、付知の頭には届かなかった。
横から間髪入れずに差し出された刀身によって、空中で受け止められたからだ。
刃と刃が火花を散らして交錯し、キィンと甲高(かんだか)い音が鳴り響く。
「てめえはなんだ、女ぁっ」
突如現れた佐切に、沢村が歯を剝いて怒鳴る。
刀を鞘(さや)に戻した佐切は、申し訳なさそうな顔で一歩下がった。
「どうもすいません、連れがとんだご迷惑を」
そして、這(は)いつくばったまま焼死体の観察を続ける付知の肩をがっしりと摑む。
「じゃあ、ご迷惑になってはいけませんから、我々は行きましょうか、付知殿」
「佐切、もう少しだけ」
「付知殿。い、き、ま、す、よ」
「……目が怖いよ、佐切」
付知は渋々(しぶしぶ)立ち上がると、小さく嘆息して着物の汚れを払った。佐切が呆れた顔で眺めてくる。
「まったく、何が少しは信用して、ですか」
「……ごめん、好奇心が抑えられなくて」
「抑えてください。お役人様、本当に申し訳ありません。この人、悪気はないんです。ご遺体が絡むとちょっとおかしくなるだけで」
「佐切……それ、かばってるつもり?」
「ほら、付知殿も謝って」
「あ、わっ」
佐切と仙汰に後頭部を摑まれ、強引に頭を下げさせられる。そのまま二人に追い立てられるように背中を押され、付知は火事現場から遠ざかっていった。
「おい待てこらぁっ! 俺の顔に泥を塗りやがって、ただで帰れると思ってんのか」
大声を上げる沢村に、隣の岡っ引きが遠慮がちに告げた。
「さ、沢村さん、あいつらには関わらないほうがいいですって」
「あぁん? 何言ってやがんだ。あいつら知ってんのか」
「俺、あの家紋見たことあるんです。あいつら、山田道場の奴らですぜ」
「山田、道場……?」
沢村は眉をひそめて、顎に手を当てた。
「まさか……首斬り浅か」
「ええ、死刑執行人、山田浅ェ門。剣の達人ばかりだって噂です」
神妙な顔をする部下を見て、沢村はわざととしか思えないような大声で言った。
「はっ、馬鹿馬鹿しい。所詮、死体に群がるごくつぶし共だろうが」
現場を離れつつあった付知の足が、不意に止まった。
「……聞き捨てならないな」
「あ、わ、まずい……」
「え、ちょっと、付知殿」
踵(きびす)を返した付知は、仙汰と佐切の制止の手を払いのけ、ずんずんと沢村のもとに向かった。そして、人差し指をまっすぐに突き付ける。
「間違ってるのは、あんたのほうだ!」
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そばの火事現場で、くすぶった火がぱちっと乾いた音を立てた。
すっかり火勢のおさまった建物とは反対に、前に立つ同心の怒りの炎は赤々と燃え上がっている。
「あぁん、間違ってるのは俺のほうだぁ?」
沢村が顔面を紅潮させて付知に近づいてくる。
「ちょ、ちょっと、付知殿っ」
「お役人の邪魔はしないほうが……」
「ごめん、佐切、仙ちゃん。だけど、死体に群がるごくつぶしなんて言われたら、黙っていられない」
追いついてきた佐切と仙汰を一瞬振り返り、付知は言った。
沢村が挑発するように真上から睨みつけてくる。
「はっ、何が間違ってるんだ。てめえらが人の死体で商売してるのは事実だろうが。汚らわしいんだよっ」
「あんたは何もわかっちゃいない。人体研究は、医学薬学……人の命を広く助けることに繫がるんだ。それに─」
付知は沢村を睨みつけた後、ムシロの中の遺体に視線を移した。
「僕は死した軀の叫びを誰よりも聞いてきた」
「付知殿……」
肩を摑んでいた佐切の手が緩む。
付知はもう一度、沢村を正面から指さした。
「死体の声も聞けないあんたこそ、同心として失格だ」
「はっ、面白えじゃねえか。この鬼の沢村を失格呼ばわりたぁ」
沢村は殺気を瞳に宿らせ、遠巻きに現場を眺める見物人達に手招きをした。
「おい、野次馬共、こっちに来い。特別に見物を許してやる。山田道場の浪人風情が、同心様に挑戦状って訳だ。せっかくなら観衆の前で検分勝負としゃれこもうじゃねえか」
その口調には、往来で恥をかかせようという魂胆が透けて見える。
火事と喧嘩は江戸の華。
諍(いさか)いの匂いを嗅ぎつけたのか、火事見物以外の野次馬もぞろぞろと集まってくる。
「さあ、もう逃げられねえぞ。これだけの見物人の前で逃げ出しゃあ、ごくつぶしに腰抜けっつう肩書きが加わっちまうなぁ」
「逃げられないのはあんたのほうだ」
「はっ、減らず口を。じゃあ、言ってみろっ。俺の何が間違っている」
沢村の怒声に、付知は顔色一つ変えずに応じる。
「寝煙草による失火っていうのがあんたの説だけど、僕からすれば遺体も見ずに断定できるほうが不思議だよ」
「はぁ? 検死くらいやってるに決まってんだろうが」
沢村は残骸となった長屋の前に安置された遺体に近づいた。被せてあったムシロを勢いよく引きはがすと、凄惨な焼け仏が日の下にさらされる。
一部の見物人から悲鳴があがった。
「てめえこそちゃんと見たのかよ、ガキ。顔もわからねえくらい焼けただれて焦げてやがる。何をどう見たって焼死体だろうがよ。てめえはこれが水死体にでも見えるのかよ」
「水死体じゃない、というのは同意する」
付知は遺体をじっと見つめて答える。沢村はわずかに眉の端を動かした。
「次だ。こんがり焼けていても体つきは見て取れる。こいつは女じゃねえし、子供でもねえ。大人の男だ」
「それも同意」
「ふん。じゃあ次の疑問だ。こいつは一体誰なのか」
沢村は得意げな顔で、鷹揚(おうよう)に腕を組んだ。
「見てとれる特徴は左手の小指がねえことくらいだが、それについてもこっちぁ聞き込みが済んでんだよ。おい、教えてやれ」
「は、はいっ」
部下の岡っ引きが慌てて返事をして、懐から帳面を取り出した。
小さな目を更に細めて、文面を拾いあげる。
「ええと、この長屋の大家に話を聞いたんですが、火元の部屋に住んでいたのは、佐平治(さへいじ)って野郎です。ひねくれた小賢(こざか)しい男で、左手の指は賭博でイカサマやった時の刃傷沙汰(にんじょうざた)で失ったようです。嫁と娘にはとうに逃げられ、ここに流れてきたと。仲間もおらず、あちこちに借金もあったようで、借金取りが時々やってくるんで大家も迷惑しているって話でした」
「おい、聞いたか、山田のガキィ」
「ええ。身元をしっかり調べている点は、少しだけ見直しました」
「はっ」
沢村はその鋭い視線を、見物している大衆のほうへ向けた。
「いいか、ここに住んでいた男は一言で言えばろくでなしって奴よ。独り身で、付き合いもなく、ろくな職にも就いてねえ。真っ昼間からやることっつったら酒と煙草くらいしかねえだろ」
まるで演説でもするように、沢村は大袈裟(おおげさ)に両手を広げた。
「たらふく酒を飲んで、虚(うつ)ろな頭で煙草をやる。半分寝ているような状態だ、灰がぽろりと床に落ちても気づかねえ。火が燃え広がるが、もう夢の中だ。あっと言う間に煙に巻かれて息絶える。見事な焼死体の完成って訳だ。これにて一件落着」
「た、確かに……」
「筋は通っているな」
「さすが同心様」
見物人達から次々と感嘆の声が上がる。
称賛を浴びた沢村は、幾分機嫌を直したように口の端を上げ、地面を指さした。
「わかったか、山田のガキ。死体屋ごときが、よくも同心様を間違い呼ばわりしてくれたなぁ。だが、俺ぁ鬼だが、まれに仏になることもある。今、這いつくばって謝るんなら許してやらんでもねぇ」
「付知殿……」
後ろにいる佐切と仙汰も不安そうな表情を浮かべている。
しかし、付知は毅然として言い放った。
「とても、論理的とは言えませんね」
「あぁ?」
眉間に皺(しわ)を寄せる沢村を無視して、付知は遺体の元へと足を進める。
「火事場から焼けた死体が出てきた。ここには佐平治という独り身の無頼な男が住んでいた。そこまでは事実としましょう。しかし、その先は単なる想像に過ぎません」
だが、沢村も動じない。むしろ、ますます得意げに口を開いた。
「悪いが、佐平治が昼間っから酒と煙草に興じる姿は何度も目撃されている。それでもご不満だってんなら─おい、中を見てこい。失火の原因が見つかるはずだ」
「はいっ」
岡っ引きが弾けるように、焼け焦げた長屋へと入って行った。すぐに「あ、ありましたっ」と外へ出てくる。持っているのは煤(すす)塗れの煙管(きせる)だ。
沢村はそれを受け取ると、観衆に見えるよう大きく振ってみせた。
「これで決まりだなぁ。俺ぁこういう現場は何度も立ち会ってきてんだ。素人(しろうと)がよくも口を出せたもんだなぁ」
「こりゃ、同心様の勝ちだな」
誰かの言葉に、見物人達の大半が頷いている。
喧嘩の軍配は同心にあがった。そんな空気が支配する中、遺体のそばで膝をついた付知は、一度顔を上げて沢村に目を向けた。
「……なるほど。では、火事の原因が煙草である、という意見も蓋然性が高いものとして認めましょう」
沢村は刀に手をかけると、額に青筋を浮かべて付知に駆け寄る。
「ガキィっ。いい加減悪あがきをやめて─」
「では、これはどう説明しますか?」
「あ?」
付知は焼死体の頭を軽く持ち上げ、沢村のほうへと傾けて見せた。
「よく見て下さい。側頭部、やや額よりの位置です。ぱっと見わかりにくいですが、左右をよく比べると、右側が腫れていて、しかも、傷のようなものがある。触ってみると骨にも亀裂があるようです」
真理の探究は、まず観察から始まる。
目を凝らし、耳を澄ませ、丁寧に触れてみれば、死者は時に生者より雄弁に真実を語ることを付知は知っている。
沢村は刀の柄に指をかけたまま、ふんと鼻を鳴らした。
「それがどうした」
「それがどうした? 極めて重要な所見ですよ」
「おいおい、話にならねえなぁ。てめえは焼死体を初めて見たのか? そんなことはよくあることだ」
「ええ。確かに炎の熱で皮膚が裂け、骨が折れることもあります。頭の中で脳を保護する膜が破れて、頭蓋骨と脳の間に血が溜まることがある」
「じゃあ、問題ねえだろうが」
「しかし、その場合、血の塊は赤褐色でもろいものになるんです」
付知は腰に提げた道具入れから鋭利な小刀を取り出した。
素早い動作で傷を抉(えぐ)り、頭蓋骨の骨折部分に刃先を差し込む。
「おい、てめえっ。勝手なことを─」
「やっぱり」
引き抜いた小刀の先には、赤黒い血糊(ちのり)が張り付いている。付知はそれを日の光にかざしてみせた。
「見てください。これは、燃焼による血腫(けっしゅ)の色ではありません」
「はあ? なんだと、それが─」
「わかりませんか? 死体の頭部に傷があり、内出血がある。しかし、この血腫は火事でできたものではない。ということは、論理的に考えれば、この頭の傷は火事の発生より前にできていたことになります」
「…………」
沢村は一瞬だけ動きを止め、大仰に肩をすくめた。
「はん……おおかた酒に酔ってどこかに頭をぶつけたんだろうが。不思議でもなんでもねえ」
「いつぶつけたんでしょうか? それほど古いものには見えません。性状からみて火事のほんの少し前でしょう」
「佐平治は酒に酔った。ふらついて頭をぶつけた。だが、いつものように煙草を吸った。火事が起きた。これで説明はできるだろうが」
「頭に出血するほどの傷を負って、のんきに煙草なんか吸うでしょうか。それに─」
付知は言いながら、腰の道具入れから先端に匙がついた金属棒を取り出した。
それを間髪入れず、死体の鼻へと突っ込んだ。
「こらぁぁっ。勝手な真似(まね)をするなと何度言ったらわかるんだ、てめえはっ」
沢村が腰の刀を引き抜いて、付知の頭上に振り降ろす。
「付知殿っ!」
佐切が止めに入る間もなく、白刃が猛然と付知に迫る。しかし、付知は相手の剣速を上回る速度で、右手に摑んだものを沢村の顔前に突き付けた。
「な、に……!」
虚を突かれ、刀を摑んだ沢村の手が止まる。だが、突き出されたそれは反撃の一刀ではなく、死体の鼻から引き抜いた金属棒だった。
「……は?」
「これをよく見て下さい」
金属棒を握りしめた付知は、間近に向けられた刃をものともせず、真剣な表情で言った。
わずかに気おされたように、沢村の視線が、付知から金属棒の先端へと移る。
「って、何も、ねえじゃねえか」
「ええ、何もないんです」
「おい、ふざけてんのか」
「僕は至って真剣です。確かに何もついていない。焼死体の鼻の奥に差し入れた金属棒に、新しい煤が付着していないんです」
「……!」
沢村が両目を見開いた。佐切と仙汰が不思議そうに顔を見合わせる。
「付知殿、それが一体……?」
「簡単な話だよ、佐切、仙ちゃん。人間は呼吸をしなければ生きていけない生き物だ。そして、火事の中で呼吸をすれば、煙に含まれる真っ黒な煤が、嫌でも鼻や喉(のど)にこびりつく」
「でも……煤はついていないんですよね?」
「うん、だからこういうことになる」
付知は金属棒を道具入れにしまうと、丸い瞳をわずかに細めて焼けた遺体を見つめた。
「この男は火事より前に死んでいた」
-
ざわ、と観衆がどよめいた。
からりとした午後の陽射(ひざ)しに、どこか不穏な空気が混ざる。
「既に死んでいた……?」
佐切が恐る恐る発した言葉に、付知は当然と言った風に頷いてみせる。
「そう、火事の時にはもう男は死んでいた。死んでいる人間は呼吸をしないからね。だから、鼻の奥に煤がこびりついていない」
「でも、なんでそんなことが……」
仙汰がわずかに語尾を震わせると、付知は遺体の頭をもう一度持ち上げた。
「煙草を吸っている最中に偶然心の臓に発作が起きた……なんてことも絶対ないとは言えないけど、もっと明確な所見が提示されているよね」
眼鏡の縁を持ち上げた仙汰が、先ほど話に上がった頭の傷を覗き込んだ。
「酔って頭をぶつけて死んだ……つまり、事故ということ?」
「頭の傷が死因なのは正解だと思うけど、事故ではないよ、仙ちゃん。それだと大きな矛盾が残る」
矛盾。つまり、論理的な整合性が取れていない状態。
付知にはそれが無性に気にかかる。なぜなら、破綻した論理の先に決して真実は存在しないからだ。矛盾を拾い上げ、組み換え、論理の道筋を通してやることで初めて真実の姿は見えてくる。
仙汰は少し困った顔で、額を腕で拭った。
「ええと……」
「仙ちゃん。佐平治は火事の前に死んでるんだ。事故死なら、その後の火事はどうして起きたんだろう」
「あっ」
「既に死んでいる者に火事は起こせない。一人で頭を打った後、じわじわ頭内で出血が広がって、ちょうど煙草を吸っている最中に意識を失って灰を落とした、と無理やり考えられなくもないけど、意識を失(な)くしてもすぐに死ぬ訳じゃないから、その場合は多少煤を吸い込んでもいいはず。だけど、新しい煤はついてなかった」
沢村が苦々しく唇を引き結んで言った。
「つまり……殺しって訳か」
観衆から短い悲鳴が上がる。
喉が詰まったような沢村の言葉に、付知は頷いて見せた。
「その可能性が最も高いと思います。誰かが佐平治の頭を殴って殺し、その後、煙草の灰を落として火をつけた。そう考えれば、現場の状況を矛盾なく説明できる」
口をぽかんと開けていた佐切が、我に返ったように尋ねる。
「でも、付知殿、なんで下手人はわざわざ火事を?」
「証拠隠滅のためだよ。もともと殺すつもりだったのか、はずみなのかはわからないけど、部屋には頭に傷のある死体が残り、辺りに血も飛び散った。でも、全てが燃えてしまえば失火のせいにできる。ついでに火事の混乱に乗じれば目撃されずに逃げやすくなる」
「すごい……」
仙汰の漏らした呟きが、その場の観衆の気持ちも代弁していた。
付知は口を引き結んで立ち尽くしている沢村に目を向ける。
「焼死で鼻や喉に煤が残るというのは、検死の手引書にも書いてあるはず。よくある火事だと高をくくってしっかり調べていなかったみたいですね。死体に群がるごくつぶしと言ったこと、訂正してくれますか」
「う……ぐ……」
自ら集めた野次馬達からも冷めた視線を浴びた沢村は、拳を震えるほど握りしめて怒鳴った。
「お、俺ぁ負けた訳じゃねえっ。口だけならなんとでも言える。下手人を捕らえてこそ意味があるんだろうが」
「下手人も、ある程度想像はつきますよ」
「何ぃぃっ」
大声を上げる沢村に、付知は澄ました顔で続ける。
「だって、大家の話では佐平治は独り身で、付き合いもなく、ろくな職にも就いてないんですよね」
「ああ、そうだ。それでどうやって下手人の当たりをつける。酒飲み仲間もいやしねえって話なんだぞ。やってくるのはせいぜい借金取りくれえで─」
沢村はそこで言葉を止めた。付知は薄く微笑(ほほえ)んで言った。
「当たりがつきましたね」
その視線を、同心の後ろに立つ岡っ引きに向ける。
「火事の前後に、佐平治の長屋に出入りした借金取りがいるはずです。目撃情報は?」
「あ、いや、たまたま近隣の連中は仕事だのなんだので留守で─」
そこまで言いかけて、「あっ」と、岡っ引きは声を上げた。
「そ、そういえば、近所の童女(わらわめ)が、火事の前、佐平治のとこに着流し姿の目つきの悪い男が入っていくのを見た気がするって……」
驚いたのは沢村だ。
「はあっ? なんだよ、てめえ、それ」
「い、いや、裏の長屋に佐平治が気まぐれに時々団子なんかを買ってやってたっていう童女がいたんですが、その子が確かそんなことを……」
「おい、てめっ、なんでそれを早く言わねえんだ」
「あ、いえ、話もちょっと曖昧で……所詮、小さな子供の言うことですし……」
岡っ引きの襟首を摑んだ沢村は、ぎりぎりと奥歯を嚙み締めて言った。
「つまり、こういうことか。佐平治はあちこちに借金があった。そして、今日もどこかの借金取りがやってきた。だが、ない袖は振れねえ。佐平治の不遜な態度が腹に据えかねた借金取りは、かっとなって持っていた棒切れか何かで殴った。そして、佐平治がおっ死(ち)んだ後、ふと我に返る。このままじゃ殺しだ。そこで失火を装い煙草で火をつけ、全てを有耶無耶(うやむや)にして逃げ出すことにした」
「おそらく。ただ─」
頷いた付知がそこで言葉を止めると、天晴(あっぱれ)と大衆から声がかかった。
喝采の中、沢村が腰の十手を振り上げる。
「てめえら、うるせえっ。火事見物は禁止だってんだろっ。いつまでもそこに突っ立ってるとしょっぴくぞ」
「自分で見物人を集めた癖に……」
「おい、今口答えした奴ぁ誰だっ」
理不尽な態度で、蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げる野次馬達を追い回す。
騒然とし始めた現場で、じっと何かを考え込む付知の肩を、佐切が叩(たた)いた。
「どうしたのです、付知殿?」
「……ん? ああ、いや」
気づいたように顔を上げ、付知は沢村に声をかけた。
「ところで、まだ暴言を訂正してもらってませんが」
「あぁ?」
立ち止まった沢村は、付知を睨みつけた後、部下の岡っ引きの頭をはたいた。
「はっ。俺だってこいつが情報あげてりゃ、すぐに殺しだって気づいたはずだ。てめえなんぞに負けたとは思っちゃいねえ」
「負け惜しみにしか聞こえませんが」
「ああっ?」
「付知殿、もう行きましょう」
「でもっ」
「付知殿」
佐切に袖を強く引かれ、付知は短く嘆息した。
「……わかったよ」
-
火事現場を後にした三人は、賑わう往来を山田道場へと向かっていた。
付知は頰を膨らませて、憤然とした調子で言った。
「納得いかないな」
「すいません、私が無理に引っ張ってしまって」
「別に佐切には怒ってないよ。でも、人をごくつぶし呼ばわりした上に、間違いも認めようとしないなんて─」
「まあ、見物人はどっちが正しかったかわかっただろうし……」
「そうですよ。見事な解決劇でしたよ、付知殿。私もおみそれしました」
「でも……」
二人に慰められた付知は、そこまで言って口を閉じた。
一体、自分は何にそんなにこだわっているのだろう。
何かが、妙な気がするのだ。
そう、何かが引っかかっている。だから、あの現場を去るのに抵抗を覚えた。
役人の態度? 勿論それはある。ただ、役人はああいうものだとわかっているはずだ。前に珍しい女性の遺体を刑場から貰い受けた時も、随分とひどい嘲笑を受けた。
それなら、一体何が─
「ですが、付知殿。そもそもは付知殿が禁止されている火事見物に、首を突っ込んだところから始まったんですよ」
佐切が教え諭すようにたしなめてくる。
「う……それは悪かったって」
「今後は火事より団子にして下さいよ」
「わかってるよ」
「あの団子は絶品だったからねぇ」
仙汰が味を思い出すようにしみじみ言うと、佐切が口に手を当てて笑った。
「ふふ、仙汰殿は指まで食べてしまいそうな勢いでしたよね」
「指……」
付知は、突然立ち止まった。
丸い瞳を呆然と見開き、唇を小さく震わせる。
急激な様子の変化に、佐切が怪訝な表情で覗き込んでくる。
「付知殿……?」
「ああ、しまった。そうだ……そうだったのか。だから、放火だったのか……!」
付知は虚空を見上げて呻くと、眼鏡をかけた同僚に勢いよく詰め寄った。
「仙ちゃん!」
「え、あ、はいっ」
「仙ちゃんの腕を見込んで、一つ頼みがあるんだ」
-
火事と喧嘩は江戸の華。
さすれば、華が散れば、宴は終わる。
炎が完全に鎮静化し、同心と山田浅ェ門の喧嘩も立ち消えになった現場は、既に閑散とした空気に包まれていた。
後に残るは真っ黒な残骸と、焼けた遺体、そして破壊消防で家を失った者達。
しかし、そういう者達も、持ち出したわずかな家財道具を手に、新たな生活の場を求めて散っていく。飢饉(ききん)。疫病。大火事。幾度もの災害に見舞われてきた江戸の民はしたたかで力強い。これまでも、これからも、こうして何度でも立ち上がっていく。
「まだ何か用かよ」
再び現場に戻ってきた付知達に、露骨な敵意を向けてきたのは同心の沢村だ。
部下の岡っ引きが、焼け落ちた長屋跡を煤だらけになって這いまわっている。
「ええ。用と言えば用です」
「もう、てめえに構っている暇はねえ。さっさと帰れ」
「何をやってるんですか」
「あぁ? ほとんど燃えカスだが、一応、佐平治の借金の証文が残ってねえか調べてんだよ。文句でもあんのか」
「別に、文句はありません」
付知はしばらくその場に立っていたが、やがて、おもむろに頭を下げた。
「どうも、すいません」
「な、なんだよ、やぶからぼうに」
戸惑った様子の沢村に、付知は顔を上げて告げた。
「死体の声も開けないのは同心失格─僕はそう言いました。だけど、その言葉はそっくりそのまま僕にも当てはまっていたかもしれません。真実が見えていないのは僕も同じだった」
「……なんだと?」
「だからと言って、暴言を許した訳ではないのであしからず」
「ちょ、ちょっと待て。そんなことはどうでもいい。それより今の話は、てめえの見立てが間違ってたってことか」
突進するように駆け寄る沢村から身をかわし、付知は死者の元へ向かう。
「それを検証するために戻ってきました」
言いながら、遺体にかかったムシロをめくりあげ、焼き尽くされた姿を再び視界に捉えた。沢村は咎(とが)めてこない。ただ固唾(かたず)を吞んで付知の動向を見つめている。
「ずっと、何かが引っかかっていたんです」
付知は焼けた軀の脇に膝をつき、その手首を摑んだ。
「それがやっとわかりました。この死体、指が一本ないんです」
持ち上げた左手には、小指が欠けている。
「……あ? そりゃそうだろ。佐平治は以前賭博のイカサマがばれて、刃傷沙汰で小指を失った。そう言っただろうが。聞いてなかったのかよ」
「聞いてましたよ。だから、出血痕がなくても不思議に思わなかったんです」
「……出血?」
「ええ。火傷もあってだいぶわかりにくいですが、欠けた指の部分、血が付着していないんです」
「だから、それの何が問題なんだ。小指を失ったのは昔の話だろうが。今さら血なんて出る訳ねえだろ」
「それに、断面に骨が露出しています」
「皮膚が焼けりゃそういうこともあるだろうが」
「僕も最初そう思っていました。ですが、昔失ったものなら傷口に肉が相応に盛り上がっているはず。断面だけ骨が露出しているのは不自然じゃないでしょうか」
沢村は眉間に皺を寄せ、ゆっくりと近づいてくる。
「何が言いたい?」
「つまり、この指は刃傷沙汰で失ったのではなく、死後に切り取られたものだということです」
沢村の足が止まった。
「死ねば心臓が止まり、血が体を巡らなくなる。だから、出血もしない。そして、切り取ったばかりだから骨が露出している。そう考えれば全ての状況を矛盾なく説明できます」
現場に散らばった矛盾は霧散し、今、一つの真実がそこにある。
佐切が困惑した表情で尋ねてきた。
「付知殿。それは、えっと、どういう─」
「僕は大きな思い違いをしていた」
付知は腰を持ち上げて、焼けただれた遺体の顔をじっと見下ろす。
「訪ねてきた借金取りが、なかなか金を返さない佐平治に腹を立てて撲殺。その後、殺しを隠蔽し、混乱に乗じて逃げ出すために火を放った。そう考えていたけど─」
そこでしばし間を空けて、付知は後ろを振り返った。
「仙ちゃん、できた?」
「う、うん、一応……」
仙汰が頰を搔きながら、帳面を手渡してきた。
付知は紙面に描かれたものを確認し、嬉しそうに眉を持ち上げる。
「すごい、生きてるみたいだ。さすが仙ちゃん」
「そ、それほどでも……」
「おいっ、てめえら何やってんだ。それは、一体なんだっ」
付知は焦(じ)れる沢村に帳面を差し出した。
そこには目つきの悪い、少し面長の男の顔が描かれていた。
「こりゃあ、なんだ?」
「仙ちゃんは絵が大の得意なんです。なので、遺体の骨格から生前の顔貌を復元してもらいました。これを大家に見せてもらえませんか」
「佐平治の顔の復元だと? 信用できんのかよ」
「信用できます。山田浅ェ門は人体の骨格を知りぬいている。仙ちゃんなら顔の復元くらい造作もないことです」
「ほ、ほめ過ぎだよ……」
「ふん……」
沢村は穴が空くように紙面を見つめた後、部下の岡っ引きに大家を呼んでこさせた。
白髪の交じった初老の大家は、しばらく絵を眺め、やがて、驚いた風に言った。
「これは、佐平治……じゃ、ありません」
-
翌日の昼。
穏やかな午後の空気が流れる山田道場の縁側で、湯吞(ゆのみ)を持った佐切が言った。
「まさか、死体のなりすまし、が真相だったなんて驚きましたね」
いつもの休憩時間。いつもの三人。
今日のお茶請けも団子だ。朝のうちに昨日の店に出向いて買ってきた。
「死体は佐平治じゃない。佐平治によって、佐平治に見せかけられた借金取りだった。それにしても、よく気づいたね」
仙汰の一言に、付知は団子を一本手に取って答えた。
「まあ、論理的には充分にあり得えたんだよね。僕達があの遺体を佐平治だと考えたのは、佐平治の家で見つかったから。そして、左手の小指が欠けていたから。ただ、家にいたからといって本人とは限らないし、小指は死後切り取ればいい。別人の可能性だって十分にあったんだ。派手な焼け具合に興奮して単純なことに気づかなかった。やっぱりまだまだ焼死体の解剖経験が足りないなぁ」
「ま、それはともかく─」
ごほん、と佐切は咳払いをして言った。
「放火の本当の目的が入れ替わりにあったとは、佐平治は意外と知恵がまわる男ですね」
「そうだね。下手人が火を放った理由は、一つは失火に見せかけるため。もう一つは火事の混乱に乗じて逃げ出すため。だけど、実は火付けにはもう一つ重要な意味があった。それは顔が焼けただれ、遺体の身元特定が困難になること」
仙汰は少し困ったように後を続ける。
「大家さんに絵を見せて、佐平治じゃないって言われた時は、絵が悪かったのかと思って焦っちゃった。事前に何も説明してくれないから」
「ごめん、死体が片づけられる前にと急いでたから。仙ちゃんの絵の腕前は信用してるよ。だから、この場合、間違っていたのは死体が佐平治だという認識のほう」
次は佐切が話を継いだ。
「つまり、借金の件でもめて相手を殺(あや)めたのは佐平治のほうだった訳ですよね」
「うん、このままでは殺しの下手人としてお縄になってしまう。そこで佐平治は一計を案じ、遺体から小指を切り取り、煙草の灰を落として火をつけた。顔が焼けた小指のない死体がこの家から出れば、誰もが佐平治が寝煙草で焼け死んだと思うはず。賭博のイカサマで賽(さい)の入れ替えがあるから、それで思いついたんじゃないかな」
そして、死人になれば、借金苦からも解放される。
今頃、晴れやかな顔で街路を闊歩しているかもしれない。
「いや、もう、なんというか……付知殿の論理的な考え方には心底感服しました」
佐切が自身の膝を摑んで、何度も大きく頷いた。
付知は団子の串をつまんだまま、くるくるとまわしてみせる。
「まあ、あの現場には矛盾があったし、それを論理的に詰めれば真相には辿り着くよ」
矛盾を排し、迷信を捨て、思い込みを除去して。
論理の道筋に沿って正しく進めば、いつかは生命の深淵にだって手が届く。
付知はそう思っている。
「とは言え、事件そのものはこれで解決とはいかないけどね」
真相は判明したが、下手人の足取りは知れず。
同心が必死になって後を追っているが、容易には見つからないだろう。
しかし、佐切は茶を一口啜(すす)ると、皿に載った団子を眺めて言った。
「でも……もしかしたら、意外と近くで捕まるかもしれませんよ」
「……なんで?」
「いや、付知殿のような論理的な考えからではなくて、なんとなくですが……」
「頼もうっ!」
そこで野太い声が門の辺りで響いた。
縁側から身を乗り出すと、そこにいたのは黒羽織の同心、鬼の沢村だった。
突然の来訪に、三人は困惑した顔で団子を皿に戻す。
付知は露骨に顔をしかめて応対に出ることにした。
「なんの用ですか?」
「あぁ? 同心様に向かってなんだぁ、その態度は?」
「じゃ、僕達は忙しいんで」
「ちょ、ちょっと待てやこらぁ。忙しくねえだろうがっ。縁側で休憩しやがってたの見えてたぞっ」
「もう面倒臭いなぁ。一体なんですか」
呆れながら答えると、沢村は地面に視線を落として言った。
「捕まったんだよ」
「は?」
「だからよ、佐平治の野郎がお縄になったんだよ」
「……え? どこで?」
付知が驚いた顔を見せると、沢村は得意げに口を開いた。
「それがよ、なぜか今日になってあの野郎、火事場にこそこそ戻ってきやがったらしい。姿を見かけた大家から報告を受け、俺様が見事捕らえてみせたって訳よ。まずはこの十手を野郎の眉間に叩き込んで─」
「……」
沢村の活躍譚(かつやくたん)は一切耳に入らず、付知は隣に立つ佐切に目を向けていた。
どうして佐平治が近くで捕まるとわかったのだろう。
「って、聞いてるか、おいぃっ」
「……はいはい。要は最終的に下手人を捕らえたのは自分だ。だから、負けた訳じゃないってわざわざ言いに来たんですよね」
「ちっ、わかってんじゃねえか。それがわかりゃいいんだよ」
大きく舌打ちすると、沢村は踵を返した。
そして、数歩進んだ後、立ち止まって、おもむろに振り返った。
「おい」
「まだ、何か用ですか?」
「悪かったな。死体に群がるごくつぶし、なんて言ってよ。てめえは大した野郎だ」
「え?」
「な、なんでもねえっ」
沢村は顔を前に向けると、今度は振り返らずに去って行った。
残された三人はしばらく顔を見合わせ、縁側に戻ることにした。
「結局なんだったんだろう。威張りたいのか、謝りたいのかはっきりして欲しいな」
「多分、両方じゃないでしょうか」
「それって矛盾してない、佐切?」
腰を下ろして、付知は食べかけの団子を手に取る。
「ま、いいや。そんなことより、佐切はどうして佐平治が近くで捕まるってわかったの?」
殺人に放火。もし捕まれば、極めて重い沙汰が下されることは間違いない。
遠方や隠れ家で見つかるならともかく、下手人が翌日の火事現場で捕まるのは、どう論理的に考えても出てこない推察だ。
不思議に思って尋ねると、佐切は恐縮した様子で口を開いた。
「いや、本当になんとなくなんですが……岡っ引きが口にしていた童女の話を覚えてますか?」
「ああ、借金取りの姿を見たっていう童女。近所に住んでて、下手人が気まぐれに団子なんかを買ってやってたっていう……」
仙汰が眼鏡の縁を持ち上げて補足をした。付知は小首を傾(かし)げる。
「覚えてるけど、それが?」
「佐平治のような付き合いの悪い男が、なんで近所の子供にそんなことをしたのかと思いまして」
「ただの気まぐれじゃない? もしくは大人には好かれないから、子供を手なずけようと思ったとか。いつか何かの役に立つかもしれない」
「そうかもしれませんが、もしかしたら近所の子に娘さんの面影を重ねていたのかもって」
佐切の一言に、付知は丸い瞳を更に丸くした。
ごほんと、咳払いをして佐切は先を続ける。
「ほら、佐平治は嫁と娘に逃げられたって話があったじゃないですか。彼ははずみで借金取りを殺し、火をつけて逃げた。だけど、火事が起きると、延焼を防ぐために火消しが周りの長屋も壊しますよね。それで、逃げている最中、ふと近所の娘が火事に巻き込まれていないか、その娘の家は大丈夫か気になった。それで様子を見るために戻ってきた」
付知は眉根を寄せて、怪訝な表情を浮かべた。
「でも、それってどう考えても矛盾してない? 逃げるために火をつけたのに、また戻ってくるなんて理解できないな。整合性が取れていない。自分の子供でもないのに、結局お縄になって馬鹿を見ただけじゃないか」
「まあ、実際のところはわかりませんけど……頭でわかっていることと、心が一致しないことはよくあるというか……」
佐切は少し黙った後、湯吞を脇に置いた。
「その……論理的には矛盾というものは存在し得ないものかもしれませんが、人間とは捕まるかもしれないとわかっていても様子を見に行ってしまったり、謝りたいけど威張ってしまったり、太ると知っていてもお団子をつい食べすぎてしまったり、そういうものではないでしょうか」
「あの、なんで僕を見るの……?」
「あ、いえっ、他意はありませんっ」
仙汰の一言に、佐切は慌てて手を振り、もう一度咳払いをした。
「佐平治のような悪党が近所の童女にほだされることもあるし、裁きの手を下す側の私とて邪(よこしま)な思いに囚われることもあります。理性と感情。本音と建前。善と悪。強さと弱さ。人とは、生命とは、本来そういう矛盾を共に抱えているのではないかと……」
「生命は、矛盾している……」
佐切の言葉を繰り返した付知は、手に持つ串団子を、目の高さに掲げた。
「非論理的すぎて、よくわかんないな」
「で、ですよね。自分でも何を言ってるのかよくわからなくなりました。でも─」
佐切はわずかに口元をほころばせる。
「付知殿は死体に群がるごくつぶしと言われた時に、役人に立ち向かいましたよね。頭では役人に歯向かうことに益はないとわかっていても、心では山田家を馬鹿にされて黙っていられなかった。そういうことではないかと」
「…………」
付知は自己を振り返るように虚空を見つめ、こう続けた。
「僕は心でも腹が立ってたし、頭でもそれを表明すべきだと思ったから、別に矛盾はないと思うけど」
「そ、そうですか、すいません」
がくっと肩を落とした佐切から、付知は団子を頰張る仙汰に視線を移す。
「仙ちゃんは佐切の言ってることわかる?」
「うーん……本音と建前っていうのはなんとなくわかるかな」
「ふぅん、そっか……」
道場で稽古の声が響き始めた。そろそろ休憩を切り上げなければならない。
矛盾を肯定するつもりはない。論理に忠実だったからこそ、事件の真相は解明できた。しかし、下手人捕獲の裏には、佐切が指摘したような行動の矛盾があったこともまた事実だろう。
人は時に頭で正しいと理解していることと、正反対の行動を選んでしまう。
そんな己の姿を今は想像すらできないけれど─
「僕にも……いつかわかるかな」
ぽつりと漏らした呟きを、佐切が拾い上げた。
「わかりますよ、きっと。だって、我々も、罪人も、付知殿も、一皮剝けば中身は同じなのでしょう?」
「それは、まあ……」
なんだか煙(けむ)に巻かれたようだ。
にこやかに微笑む佐切を見つめ、付知は残った団子を口に運ぶ。
見事な焼き色のついた醬油団子は、少し辛くて、ほんのり甘かった。
辛さと、甘さ。
矛盾しているようで調和したその味わいが、舌の上にゆっくりと広がり、そして、喉の奥へと溶けて消えていった。